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中華 状元への道

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2019年 03月 11日

土地に根付いた「盆唄」が世界をつなげる

映画「盆唄」鑑賞

題名から想像できるスケールを遙かに超える世界観が写しだされていた。
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帰宅困難地域に指定された福島双葉町につたわる盆唄を残したい。避難先でおっちゃんたちが語らう。いつか故郷に帰るときのために残しておきたい。その盆唄につながる盆踊りがハワイにあった。盆ダンスとして移民たちがつたえていたのだ。毎年ハワイの地元の人々をまじえてやぐらを囲んでいる。双葉町のチームも盆唄を伝えたいとハワイに赴く。彼らは思った。いつか町に戻れる日までハワイで保存してもいいのではないかと。ハワイ移民には福島県出身も多いという。

移民。基本貧しさから抜けるために移民の道を選んだのだろう。明治の日本は国民を養いきれなかった。ハワイでは労働力を必要としていた。移民たちはサトウキビ畑の労働者として渡った。カリブの黒人や中国人、インド人と同じ道だ。日本にはハワイが近かった。苦労した移民たちに伝わる歌が印象的だった。サトウキビ畑で働きながら歌ったという「行こかメリケン、帰ろかニホン」でも結局はその地で骨を埋めるしかない。盆ダンスで故郷をおもいつつ新しい地で仕事に精を込めた。

明治の日本は文明開化で潤った。しかし増えた人口は養えない。食料の生産は米に頼っていた。米は気候により収穫が変わる。人口調整が必要となる。そこで国の意志で官製移民。ハワイも、ブラジルも、のちの満州も構造はおなじだろう。

今の福島はそれと異なる。食を支える米を作った。開拓して品種改良して明治以降は自分たちのためだけではない。国のため、東京のため。第二次大戦後は電気を作ることになった。原発。科学万能主義。自然も制御できると。土地の人々はそこで国のため、東京のため、土地を渡した。結局不遜な人間は自然にやられるわけだが、あげくに立ち入り禁止となった。国に尽くした報酬として得たささやかな繁栄もあったが、築いた町は封鎖され放置される。盆唄を伝える仲間たちの立派な家々も震災当日の状態で放置され、修理もできない。太鼓たたいて唄っていた日々も戻らない。動物と草木だけが動かない人工物を覆うように繁殖し生を取り戻す。自然の力。科学の力で人間が造ったものは堅牢にみえても、融通が利かず、朽ちて地に還らない。その分、かつて立派だったひと気のない無機質な廃屋が静かに違和感を放つ。それでもやむにやまれず外に出て行った人たちにとってはそこは人生の詰まった生活の場であり、歴史が刻まれた地である。せめてそこで紡いだ無形の唄を残こしたい。土地の人たちがつないできた唄を。

しかしその伝統といえる土地の唄も歴史を遡ると必ずしもその地だけに排他的に存在してきた訳ではない。大きな歴史の変動のなかで人の移動とともに混じり合い織り込まれ地に根付いたのだ。せいぜい数100年だ。かつて移動の原因は冷害であったり、河川の氾濫であったり、いくさであったりした。そしてまた今日、地震によって、というより原発事故で移動を開始した。しかし現代はボーダー社会。簡単にはほかの土地にコミュニティを移せない。ちりぢりになるしかない。でも唄だけは残そう。

以前観たアルメニア映画を思い出した。「消えた声が、その名を呼ぶ」アルメニア人は流浪の民で世界中に散らばってる。映画ではオスマントルコの迫害を逃れた家族が途中で離ればなれになる。そして父は娘を探す旅に出る。彼らは歌の民族。しかし父は喉をかききられ声がでなくなる。しかし世界中のコミュニティで歌声をだどり探しだし、ついには...。つまり歌声が民族をつないでる。

先週読んでしの世界観に卒倒した「声、千年先に届くほどに」(姜信子著)には朝鮮半島からカザフスタンに追いやられた朝鮮族の歌声物語のほか、歌かつないだすさまじい歴史が描かれていた。


昨年私が旅したのは中国貴州省。歌の民族トン族が歌のフェスティバルを開くからだ。宋の時代に漢族の迫害を逃れ、谷間に集落を築き、山を切り開き、壮大な棚田を造った。彼らを支えたのも歌だ。彼らは文字を持たない。歌で歴史を記憶する。村の決めごとも歌の中になるのだ。

私にとって映画を観る醍醐味というのは、知らない世界に触れつつも、自分の中の触れてきた世界が刺激を受けスパークしつつ世界理解が深化したような気になれることである。その意味でこの作品には大いに痺れた。

ちなみに私の曾祖父は大正期にブラジルで移民のための学校を作ろうと努力した。祖父母は戦争中満州にいた。私は福島の牧場で育った。この映画の場面場面にいろいろと縁がある。

幼いころ福島白河で育った。父が牧場に獣医師として勤務していた。理想の牧場を作る実験農場のような場所である。よそ者として地元の方々と一緒に働いた。東京から来た若い技術者はおそらく受け入れられたんだと思う。いまでも父は当時をなつかしむ。ところが知事の汚職事件に関連して経営母体が不安定になり。父は牧場をやめ、東京に帰った。地元の仲間はどう思ったのだろうか?

引退した父をつれて当時の仲間の墓参りにいったことがある。私の育った牧場はない。ちかくで別の牧場を営む仲間がBBQを開いてくれた。心身ともに体調の悪かった父は、その日はとても楽しそうだった。でも彼らが明るく話す内容は深刻なものだった。村には除染トラックが走る。風評被害で牛乳は売れない。牛が食べる牧草は野外に放置できず、ビニールで包まれた牧草はすべてアメリカからの輸入だ。近所の原っぱには黄色の花が一面に咲いていた。外来種。彼らが家庭菜園で造る野菜はすべて放射線を測定してから食べている。「キノコは食べちゃだめだよ」山でとれたキノコ鍋は私の幼い頃の最高の思い出だった。

そんなことがどんどん想起された。

それでもこの映画、反政府、反文明といった思想性が強いわけではありません。さらっとそのままを撮している。東電もけして悪者に描かれていない。政権を批判したりもしない。出演者に過度に感情移入するわけでもない。そこには被写体があるだけ。そしてここでおきていることは世界で歴史上繰り返し起きてきたことなのだと思い当たる。今日も明日も、どこかで、近くでも。

正直言って、福島に育った私が福島の歴史的位置付けを意識したのは震災後だ。そして世界も違って見えてきた。

以上




by zhuangyuan | 2019-03-11 10:42 | 映画 | Comments(0)
2019年 03月 03日

映画「ウェディング・バンケット」にみる「家」

映画「ウェディング・バンケット」

台湾映画でベルリン映画祭金熊賞ってことでずっとみたいとおもってました。米国にわたった中国系カップルの結婚式の話です。先日中国語原書会に参加し課題図書が巴金「家」だったので現代の家事情が当時といかに変わったか、もしくは変わっていないのかが気になったのです。
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巴金「家」の大家族は清朝末期を舞台として、時代変化の影響は受けつつも旧態依然とした家が打破すべきも、大きな存在感をもっていた。若い三兄弟の長男は家に縛られ、恋人を捨て、家のために結婚した妻も見殺しにした。次男は進歩的な従妹と恋仲だが、自らは行動しない。三男は少女である婢女に恋をするが、家の力で彼女が妾にやられるのを止められない。最後に彼は家をでて都市に向かう。とにかく崩壊する清朝においても家はまだまだ大きい。

 この1993年に公開された映画で家はどうなったのか?予備知識なしで観たのでいきなり驚いた。ニューヨークに住む台湾青年ウェイトンはゲイなのだ。白人男性と同棲している。台湾に住む母親はいつまでも独身の彼に結婚相談所に登録をすすめたり、お見合い相手を送り込んできたりする。旦那の心臓が悪く、早く孫を見せたいという一心に。そこで思いついたのが偽装結婚。店子である芸術家の中国系女性ウェイウェイが結婚相手となる。彼女は大陸からやってきて彼に思いを寄せていたがゲイのためかなわぬ恋である。しかしグリーンカードのために偽装結婚に同意する。結婚のニュースを聞き彼の両親はすぐさま台湾から飛んできた。略式結婚で済ますはずがメンツがたたずに大きな披露宴を開くことになってしまった。

息子は彼氏との愛を信じ、家の存続など気にもとめない。たかや彼女のほうは家をおいて大陸からアメリカに渡り、新たな地アメリカで永住権という家の代替物のために婚姻を利用する。台湾の両親はそんなことはつゆ知らず家の存続を喜ぶ。面白いのは、披露宴を開くきっかけになったのが、かつて両親の家で使用人をしていた男がニューヨークで大きなレストランを開いていたことがきっかけだったことだ。この元運転士は家の旦那をいまでも敬い、メンツを重んじ、かつての主人と同じテーブルを囲おうとはしない。アメリカに渡りつつも家のしきたりを守っている。結婚式前に父親が息子に打ち明ける。若い頃自分も家の進める婚姻からに逃げて軍隊に入ったのだと。

家とはいったいなんなのだ。結局は金だと思う。経済維持システム。ウェイトンは裕福な台湾の家からのバックアップもあっただろうがアメリカで仕事を持ち成功している。ジムで体を鍛えるすがたに個の確立がみえる。ウェイウェイはまだ貧しいころの中国大陸から脱出しアメリカに渡り、自らの芸術的才能で食べてゆこうとするが生活が苦しく生きる寄る辺を求める。ウェイウェイの彼氏サイモンは裕福な生活をして愛に生きる。父親は大陸で軍隊に入り、日本と共産軍と戦い、その後は故郷を去り台湾に渡り、使用人を使うまでになり家を作った。巴金「家」に君臨する爺爺は辛亥革命期の激動の中でもしきたりを維持して大家族をまもる。なくなった息子の代わりとして孫の三兄弟長男に期待する。それも経済のためだ。多くの使用人がかしずくのも経済のため。長男が愛を犠牲にして家に従うのも、伝統の呪縛より、経済の維持のためだろう。西洋の思想に共鳴した若い三男が家を飛び出るのも経済的バックグラウンドがあってのことであり、塗炭の苦しみは経験していないゆえデモクラシーや個人があるのは経済的基盤による人権が確立されて初めて成り立つことを知らない。

「家」は経済的基盤であり、内と外の区別が必須であり、包摂と排除が前提となる。その中でのみ富を分け与え、そして守る。社会全体が豊かになり家システム必要とされなくなれれば、ほころびてゆく。社会福祉システムがそれを代替するからだ。しかしそのシステムの上にさらに君臨できる「家」であればそれは維持されるだろう。映画「クレイジーリッチ」で描かれたシンガポールのスーパー金持ち一家のように。ここでも家への束縛が同じだが、あまりにリッチであっけらかんとしており、悩みもスーパーリッチで深刻さがない。世界でアジア人がリッチになった証拠だ。どこかにしわ寄せを作りつつも。

ウエディング・バンケットの大団円はネタバレになるのでいいませんがさすが金熊賞というだけあって想像の及ばない結末であり、いろんな余韻を残してくれる。家、親子、台湾、中国、移民、アメリカ....。最後は父親が台湾に帰って行く。イミグレの検査を経て。

以上


by zhuangyuan | 2019-03-03 17:02 | 中国関連DVD、本 | Comments(0)