人気ブログランキング |

中華 状元への道

zhuangyuan.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:映画( 8 )


2019年 03月 11日

土地に根付いた「盆唄」が世界をつなげる

映画「盆唄」鑑賞

題名から想像できるスケールを遙かに超える世界観が写しだされていた。
d0018375_10431119.jpg

帰宅困難地域に指定された福島双葉町につたわる盆唄を残したい。避難先でおっちゃんたちが語らう。いつか故郷に帰るときのために残しておきたい。その盆唄につながる盆踊りがハワイにあった。盆ダンスとして移民たちがつたえていたのだ。毎年ハワイの地元の人々をまじえてやぐらを囲んでいる。双葉町のチームも盆唄を伝えたいとハワイに赴く。彼らは思った。いつか町に戻れる日までハワイで保存してもいいのではないかと。ハワイ移民には福島県出身も多いという。

移民。基本貧しさから抜けるために移民の道を選んだのだろう。明治の日本は国民を養いきれなかった。ハワイでは労働力を必要としていた。移民たちはサトウキビ畑の労働者として渡った。カリブの黒人や中国人、インド人と同じ道だ。日本にはハワイが近かった。苦労した移民たちに伝わる歌が印象的だった。サトウキビ畑で働きながら歌ったという「行こかメリケン、帰ろかニホン」でも結局はその地で骨を埋めるしかない。盆ダンスで故郷をおもいつつ新しい地で仕事に精を込めた。

明治の日本は文明開化で潤った。しかし増えた人口は養えない。食料の生産は米に頼っていた。米は気候により収穫が変わる。人口調整が必要となる。そこで国の意志で官製移民。ハワイも、ブラジルも、のちの満州も構造はおなじだろう。

今の福島はそれと異なる。食を支える米を作った。開拓して品種改良して明治以降は自分たちのためだけではない。国のため、東京のため。第二次大戦後は電気を作ることになった。原発。科学万能主義。自然も制御できると。土地の人々はそこで国のため、東京のため、土地を渡した。結局不遜な人間は自然にやられるわけだが、あげくに立ち入り禁止となった。国に尽くした報酬として得たささやかな繁栄もあったが、築いた町は封鎖され放置される。盆唄を伝える仲間たちの立派な家々も震災当日の状態で放置され、修理もできない。太鼓たたいて唄っていた日々も戻らない。動物と草木だけが動かない人工物を覆うように繁殖し生を取り戻す。自然の力。科学の力で人間が造ったものは堅牢にみえても、融通が利かず、朽ちて地に還らない。その分、かつて立派だったひと気のない無機質な廃屋が静かに違和感を放つ。それでもやむにやまれず外に出て行った人たちにとってはそこは人生の詰まった生活の場であり、歴史が刻まれた地である。せめてそこで紡いだ無形の唄を残こしたい。土地の人たちがつないできた唄を。

しかしその伝統といえる土地の唄も歴史を遡ると必ずしもその地だけに排他的に存在してきた訳ではない。大きな歴史の変動のなかで人の移動とともに混じり合い織り込まれ地に根付いたのだ。せいぜい数100年だ。かつて移動の原因は冷害であったり、河川の氾濫であったり、いくさであったりした。そしてまた今日、地震によって、というより原発事故で移動を開始した。しかし現代はボーダー社会。簡単にはほかの土地にコミュニティを移せない。ちりぢりになるしかない。でも唄だけは残そう。

以前観たアルメニア映画を思い出した。「消えた声が、その名を呼ぶ」アルメニア人は流浪の民で世界中に散らばってる。映画ではオスマントルコの迫害を逃れた家族が途中で離ればなれになる。そして父は娘を探す旅に出る。彼らは歌の民族。しかし父は喉をかききられ声がでなくなる。しかし世界中のコミュニティで歌声をだどり探しだし、ついには...。つまり歌声が民族をつないでる。

先週読んでしの世界観に卒倒した「声、千年先に届くほどに」(姜信子著)には朝鮮半島からカザフスタンに追いやられた朝鮮族の歌声物語のほか、歌かつないだすさまじい歴史が描かれていた。


昨年私が旅したのは中国貴州省。歌の民族トン族が歌のフェスティバルを開くからだ。宋の時代に漢族の迫害を逃れ、谷間に集落を築き、山を切り開き、壮大な棚田を造った。彼らを支えたのも歌だ。彼らは文字を持たない。歌で歴史を記憶する。村の決めごとも歌の中になるのだ。

私にとって映画を観る醍醐味というのは、知らない世界に触れつつも、自分の中の触れてきた世界が刺激を受けスパークしつつ世界理解が深化したような気になれることである。その意味でこの作品には大いに痺れた。

ちなみに私の曾祖父は大正期にブラジルで移民のための学校を作ろうと努力した。祖父母は戦争中満州にいた。私は福島の牧場で育った。この映画の場面場面にいろいろと縁がある。

幼いころ福島白河で育った。父が牧場に獣医師として勤務していた。理想の牧場を作る実験農場のような場所である。よそ者として地元の方々と一緒に働いた。東京から来た若い技術者はおそらく受け入れられたんだと思う。いまでも父は当時をなつかしむ。ところが知事の汚職事件に関連して経営母体が不安定になり。父は牧場をやめ、東京に帰った。地元の仲間はどう思ったのだろうか?

引退した父をつれて当時の仲間の墓参りにいったことがある。私の育った牧場はない。ちかくで別の牧場を営む仲間がBBQを開いてくれた。心身ともに体調の悪かった父は、その日はとても楽しそうだった。でも彼らが明るく話す内容は深刻なものだった。村には除染トラックが走る。風評被害で牛乳は売れない。牛が食べる牧草は野外に放置できず、ビニールで包まれた牧草はすべてアメリカからの輸入だ。近所の原っぱには黄色の花が一面に咲いていた。外来種。彼らが家庭菜園で造る野菜はすべて放射線を測定してから食べている。「キノコは食べちゃだめだよ」山でとれたキノコ鍋は私の幼い頃の最高の思い出だった。

そんなことがどんどん想起された。

それでもこの映画、反政府、反文明といった思想性が強いわけではありません。さらっとそのままを撮している。東電もけして悪者に描かれていない。政権を批判したりもしない。出演者に過度に感情移入するわけでもない。そこには被写体があるだけ。そしてここでおきていることは世界で歴史上繰り返し起きてきたことなのだと思い当たる。今日も明日も、どこかで、近くでも。

正直言って、福島に育った私が福島の歴史的位置付けを意識したのは震災後だ。そして世界も違って見えてきた。

以上




by zhuangyuan | 2019-03-11 10:42 | 映画 | Comments(0)
2018年 11月 11日

映画「十年」のリアル日本

d0018375_21094315.jpg
香港で大ヒットした映画「十年」徐々に大陸中国に取り込まれてゆく香港の十年後を描いた作品だった。この映画の日本版が公開された。是枝裕和監督がプロデュースして5人の若手監督がそれぞれのテーマで短編を作った。

香港ではイギリスから中国への返還があり強大な中国共産党が統治する体制と現政治制度の基本的相違が存在する。その状況下での十年となると悲観的な未来像が容易に想像できる。ところが日本は体制は変わりそうにないし、人口構成は変わるが、十年というとすぐそこのような気がして、日本版が作品としてリアリティを保てるのかと疑問を持った。

ちなみに香港版のテーマはこんな感じ。

国家安全条例制定
歴史の破壊と保存
消えゆく広東語
独立運動と焼身自殺
言葉狩り

以前ブログに書きました。

言語好きとしては言語統制による支配政策が特に興味深かった。広東語と結びついた歴史と文化を中央に画一化することで効率よく政策実行できる。

日本版のテーマはこれだ。
高齢化と安楽死
データ遺産
教育と監視
核汚染と地下生活 
徴兵制

鑑賞前の心配は当たらず、どれもキレ味があり、現実味が迫って身につまされる。

初め作品PLAN75の世界では75歳で安楽死を選べる法律ができている。

こんなエピソードを思い出した。

父と同年齢である私の友人は数年前に突然死した。ベッドで本を読んだ姿のまま起きて来なかった。2日後に私と食事の約束があったのに。彼は生前言っていた。「母ちゃんボケちゃって、旦那のオレが見舞いに行ってもな、オレは毎日初めて会う人なんだよ。施設のカネも払えなくなるからあと5年で一緒に死のうってあいつに言ってんだ。向こうには通じてないけどね」そんな彼が先に逝った。

「いたずら同盟」で描かれるのは、将来の成功に向けて効率よく勉学に励むべく小学生たち。ソフトウェアに管理され、AIに監視されている。約束された将来のために無駄なことはさせない。外れた行動をすればヘッドセットから戒めの声。挙句はオートパニッシュメント。

この作品も受験生を子に持つ親として他人ごとでない。今の東京では都立高校入試は内申重視。主要5科目以外の4科目に倍の配点があり、各科目は細かく評価ポンイントが分かれ、関心、意欲、態度に重点が置かれる。筆記テストの点以外がより重要。成績をつける側の主観で配点される。要は従順な組織人候補が加点される。古い。映画の主題と重なるが、大きな背景のもと教育目標が決められ、それに応じた評価システムが組まれる。そのシステムも数値化できない部分は主観に委ねれれる。大組織の効率化で勝てた成長時代はとっくに終わっている。この作品でも目標に向けた無駄のない効率化した行動を促される。どこかの誰かが正しいと決めた目標に向かってね。

徴兵制の世界を描いた「美しい国」では若い広告代理店営業マンとベテラン女性ポスターデザイナーの関わりが物語の主軸だ。木野花演じるはちゃめちゃなデザイナーの部屋には父親の軍服姿の写真がある。

昨年亡くなった祖母の枕元には戦死した祖父の写真があった。軍人として満州にいて帰国した赴任先が広島。そこで世界の実験台にされた。弱冠23歳。私よりずっと若い祖父は私にそっくりなのだ。祖母は戦争の話は自分からはしない。ただいつも前向きで僕らを励ましてくれた彼女がアメリカのことはひどく憎んでいてアメリカの食べ物は一切食べなかったと死後に聞いた。リアルに戦争を体験した最後の世代が消えてゆく。「美しい国」記憶と乖離した絵空事のような響きが怖い。

どの作品も自分の過去と未来を想起させる現実感の伴ったものだった。いい作品を観ると脳が刺激され沢山の記憶がつながりイマジネーションが湧いてくる。

物語の肝には触れてませんので皆様作品をお楽しみください。

以上


by zhuangyuan | 2018-11-11 21:09 | 映画 | Comments(0)
2017年 06月 25日

映画「メッセージ」がとどけるメタ的言語ワールド



映画「メッセージ」鑑賞


ある日、地球上の11ヶ所に宇宙船が現れる。


目的は不明。


アメリカでは来訪者の真意を探るべく言語学者ルイーズが選ばれた。

彼女は多数の言語を操る天才。


宇宙船に軍とともに赴き異生物たちの発する音や記号を理解しようとコミュケーションを図る。7本足の生命体(ペプタポッド)はそれぞれ名付けらることで個性を持つ。宇宙船空間は重力の方向が地球と異なり異生物はどうやら吐き出した墨の形状がいわゆる文字の働きをしているようだ。その文様をルイーズが解析し意思疎通が進み出す。


ところが中国では相互理解の前に先制攻撃が決定される。果たして全面戦争は避けられるのか?題名が示すように映画の主題はメッセージ。世界11箇所にメッセージが送られひとつひとつでは解が得られない。世界は協力できるのか?異生物の目的は?


言葉好きにはたまらない興味の尽きない内容でした。表意文字アルファベットをボードに書いて通じるのか?中国の表意文字、漢字はいかに?異生物の墨文字は正面から見た平面で捉えて良いのか?立体であれば見るものの位置で意味が変わるはず。回想として挿入されるルイーズと娘の意思疎通はいかに変化してきたか。


つい先日読んだ本を思い出しました。


「文芸翻訳入門」



その中に移民収容センターの話がありました。


移民たちの半生を作家が聞き出して物語を紡ぐ。

その文章には何パターンの翻訳行為があるのかを問う入試問題が出されたといいます。


正解は

①移民の話を作家が書く翻訳

②移民と作家の間に入る通訳による翻訳

③作家自身も外国出身で英語を外国語として話す。これも一種の翻訳行為。

④この物語を日本語にする翻訳

計4つ


どの局面においても誤訳が入る可能性があるのです。


一方、この映画メッセージはどのくらいの翻訳行為があるのか?


①宇宙人の言葉をルイーズが英語に翻訳

②それを日本語字幕にする翻訳

③原作小説から映画を作るという翻訳

④小説の作家は中国移民の息子ゆえに英語で書くことはすでに翻訳行為


字幕作成という行為は翻訳のさらに翻訳と言える。この映画の宇宙生命体の言語にはどうやら時制がないらしいのですが、それを字幕を通して読むと、意味の取れない部分が元の言葉にあるのか、字幕の限界にあるのか一度観ただけで判別出来ませんでした。


上にあげた本にはこうある。


「普段はなじみのない事柄など直訳では伝わらない要素は役者がそうさくして補わねばならない。

だから、字幕は翻訳と言うよりは脚色なのだと思う」P233


「映画は原作に対する一つの読み方を提示するにすぎない」P244


ちなみに原作はStory of your life(あなたの人生の物語)

それが映画になるとArrival(到着)に翻訳され

さらには邦題になると「メッセージ」になる。

主題が変わっちゃうほどの翻訳です。


原作の1つの解釈である映画も観客それぞれが自分のそれまでの体験の積み重ねを基にしてそれぞれが翻訳して消化する。


そしてその元のもとの原作はアメリカに渡った中国人の子孫が書いている。

そして映画では中国語が重要なキーになる。これは映画としてのオリジナルだというから面白い。


ともかく言語がテーマであり言語が地球さらには宇宙に与えるものはなんなのだ?


これは観てのお楽しみ。


言語の違いが分裂を生むのか?それとも?


以上






by zhuangyuan | 2017-06-25 11:02 | 映画 | Comments(0)
2017年 04月 20日

狂気の芽は自分自身にも

「葛城事件」鑑賞。
d0018375_15033328.jpg


ずっと観るチャンスをうかがっていましたが、重苦しい内容だとわかっていますので躊躇します。ブルーに耐えるのは体力が要りますのでこれまでタイミングが合いませんでした。名画座でたまたま時間があったので疲れは横に置いて夜の最終回を観てきました。

案の定はじめから終わりまで沈鬱なムードで貫かれ救いがない。しかも全員が暗い。三浦友和演じる最低な親父も怖いが、ちょっとネジが外れた系の妻役南果歩のカラ回りした明るさがもっと怖い。

凶悪殺人を犯した次男はどう育ったのか?家庭が崩壊したのはなぜか?父親はいつから傍若無人なふるまいをするようになったのか?

さして大きな転換点があるわけではない。どこかでボタンを掛け違えたままジワジワと深々と軋轢の起点に重しが積み重なっていく。

登場人物は皆、それぞれ描いていた未来と違う自分に気づき、それでいてそこに正面から向き合わず誰か他人や社会そのものに理由を求め、自らの不作為に対しても細かい言い訳を繰り返す。その言い訳は外部に対して行っていたはずであるが知らぬうちに自らもそれを信じ込み、というか信じざるを得ず、それに固執してしまう。正義と思い込もうとすればするほどに後に引けなくなる。

父親の人格を形成してきた成り行きを想像すると、学歴はないながらも親の店を継ぎ、時代の勢いか、それなりに成功し、家庭も持ちマイホームを立てる。ある一つの到達点。ここからは幼い子を育てあげる責務が加わる。

十数年後にはこれまた時代のせいか仕事はうまくいかず、マイホームはくすんだ色合いとなり、家には無職の次男が無気力にこもっている。妻が甘やかしすぎた。学歴は大事だと当てほど言い続けたのに。俺のせいではない。でもどう考えても父親の血を多く引くのは次男のほう。父親のように世を憂う言動を繰り返す次男。いつか一発逆転してやると唱えつつ悶々と過ごす。父親も何かをなすことなく子供に自分を仮託しつつも上手くいかないことは自分以外に安易な口実を見つけののしり、時に暴力に訴える。

長男の嫁の実家と中華テーブルを囲む場面がヒリヒリして痛ましい。20年家族で使っている店に招待したまでは良かった。麻婆豆腐が辛すぎる。店長呼んでこいと怒鳴りつける。ホストたる自らのメンツを立てることに必死で客はそっちのけ。それでいて自分の選択があっていたことを相手に執拗に合意させるべく、水餃子がうまいと言い続ける。1人よがり独り相撲。なんのコンプレックスがそれをさせるのか?自分のあるべき姿との違い、周りとの違い、時代のずれ、浮いている自分がわかっているのに認められない。

家族をとりまく人々も含めすべての人々が大小、濃淡はあれど不如意な自分への言い訳を続ける。これは時代性のせいなんだろう。大きく背伸びして膨らんだバブルとそれに続く長期停滞。一度上を知りながら下にいる理不尽感を大多数が持っている。オレのせいじゃないんだ。オレはやってきた。それなのに..

観ているあいだ終始ざわざわさせられっぱなしでした。その夜寝てる間もざわついていたような。

これほどの破綻はないというほどの家族崩壊が起こるんですが、それほど特別に追い込まれる環境がなくとも、もっと言えば自分自身でもいつの間にかこうした破綻に近づく可能性を想像させられるキツイシンドイ映画でありました。みんなと語りあいたいけどもオススメするにはむごすぎる。

以上


by zhuangyuan | 2017-04-20 14:58 | 映画 | Comments(0)
2017年 01月 22日

見えない世界をどう見せる?「推拿」

中国映画「推拿 ブラインドマッサージ」鑑賞。

d0018375_21515254.jpg


地味なテーマ、目をそむけてきたテーマを描いてこれだけ目が離せない物語にするとは恐れ入ります。

推拿、手の感触から広がりゆく奥深い世界が感じられる。邦題でブラインドがつくとそこで世界が遮断されているような閉塞感をイメージしてしまう。

盲人按摩が繁盛していた時代の物語だと言う。
私もかなり前に何度か施術を受けたことがあります。ロウソクくらいのともしびだけの暗い部屋に通されてうつ伏せで身を委ねる。暗がりの中でじっと受け身で過ごす不安感は忘れません。あちらが万能、こちらがハンディを負いなすすべがない感覚。当時は中国語もできませんので無力です。

映画では経営者も含めてマッサージ師が全て盲人である施術院での人間模様を描く。

ナレーター曰く、盲人は健常者を一級上であり神に近い存在だと感じるのだという。そうなのかもしれない。でもそれはそう思わされているだけなのではないか。ろうの世界の歴史と現状を描いた「手話を生きる」を読むと盲人のこの考えは、洗脳された結果にすぎないのではと思えてくる。

健常者が作り上げた聞こえる者が中心にいる世界に、聾が努力して合わせるべきだと教えられ、
かつては手話の使用を否定された。本来芳醇な精神世界が手話によるコミュケーションで培うことができるにもかかわらず、習得困難な口話教育により幼児レベルの思想に押し込まれたという。盲の世界にも光ではない何かが照らす深淵があるのではないか。

按摩院で働く盲人たちは推拿という特殊技能を持ちながらも患者を含めた圧倒的多数派である健常者が作る世界の価値観の影響を免れない。常にポジティブな院長はごく幼いころに視力を失いずっと盲の世界で育ったため盲であることにコンプレックス感じたことがないという。そんな彼ですらも健常者の価値観の影響を受ける。目の見える患者たちが口々に褒め讃える美貌の持つ盲人按摩師に恋をする。見える世界の美に触れたことがないにもかかわらず。未知のものに対する憧憬。見えることはない、知ることがないと知りつつも。

かつて健常者であり徐々に視力を失いつつあるもう一人の女性按摩師は盲人である恋人にいう。自分は按摩院で2番目の美女であると。そしてそんな彼女を持つことが誇らしいかと盲人の彼に問う。美を目で捉えられない彼氏に。見えていた世界の論理にすがる彼女。その院には視力の度合いや盲になった時期の異なる按摩師が同居している。はじめから見えない盲人は自らの世界を楽しんでいるように思える。光のない世界がホームとして。見える世界と見えない世界の境界が人間模様も中で交差し、時に錯綜する。価値観がくずれる、あやふやになる。

原作が読みたい。映像は見える世界を見せる。文字では見えない様子をどう描くのか?表意文字である漢字の国で音だけの世界をどう表すのか?是非原書をのぞいてみたい。


by zhuangyuan | 2017-01-22 21:47 | 映画 | Comments(0)
2016年 05月 05日

「カルテル・ランド」正義の変質 その時ゲバラならどうする?

d0018375_21360438.jpg



「カルテル・ランド」試写会にて鑑賞。

メキシコ ミチョアカアンで麻薬カルテルが跋扈し警察も手がでない。さもなくば警察も彼らに抱き込まれてる。子供たちまで巻き込んだ殺戮の繰り返しに対し、街を守るのは自ら銃を持って立ち上がるしかないと自警団が立ち上がる。中心になったのはミレレス医師。長身痩躯にカーボーイハット。優しい面立ちにも鋭い眼光が光り、演説すれば民衆を惹きつける。街の支持を得た自警団は徐々に勢力を拡大しカルテルから街を取り戻してゆく。

勢力が拡大すると警察権力が抑えにかかる。ヘリでやってきて武装解除を迫る。民衆がおびえていると。しかし民の支持をバックに武装した警察隊から武器を取り戻す。街の安全のため。正義の武装がなし崩し的に認められる。

カルテルアジトを急襲する場面もカメラが回る。思わぬ方向から銃声がなり画面が揺れる。ドキュメンタリーならではのヒリヒリとした緊張感。カルテルの幹部を連行する。自警団メンバーは幹部を殴る。次から次へとやってきて押さえつけられた幹部を殴る。憎しみの過剰。

正義を掲げた小さな抵抗から、勝利を重ねるごとに勢力を増し、大きな力を得ると惰性がつき、正義があやふやになる。驕りも加わり過剰へと進む。そして中から変質してゆく。リーダーミラレスは嘆く自警団はカルテル化していると。警察組織からの再三の懐柔工作を受け、ついには迎合の時を迎える。

ミラレス医師は身の危険を察し、組織を離れて街を出て行く。

試写会にはスペシャルゲストとして「ゆきゆきて神軍」の原一男監督のトークがありました。

4回観たといいドキュメンタリーとして絶賛するも観れば観るほどわからなくなるという。権力に対するため民衆が武器を持ち立ち上がることを否定しないが自警団の変質や権力への同化の見せられると自信がなくなると。
「皆さんどう思います?」と原一男監督。

わからない。
特にわからないのはミレレス医師。カリスマ性を持つリーダーがあっけなく組織を去る。組織を立て直すことにカリスマ性を発揮すれば正義の道もあっただろうに。映像の迫力と多層な構造の絡み合いに頭が熱し答えが出ない。

映画の余韻冷めやらぬまま翌日にはGWの家族旅行に出ました。旅先で私なりの答えを見つけたんです。というか本に教えてもらった。ふと立ち寄った古書店でみつけたのはゲバラの本。
d0018375_21002001.jpg


現代思想 2004年 10月臨時増刊 「総特集 チェ・ゲバラ」そのなかの一編「路上の紳士」(越川芳明)にこうある。

ゲバラが10代の頃にに取り憑かれていたのは、革命でなく放浪だった。

ゲバラは自ら血の中に、ほうっておけば立派な独裁者になりかねないカリスマ性と残虐性があることに気づいていた。


そしてイギリスの作家の言葉を引く
「生物学の一般的な規則によれば、移動性の種は定住性の種ほど"攻撃的"でない。」


ゆえにゲバラはキューバを去った。
ミラレス医師もそこに自覚的であったのではなかろうか?定住する権力は攻撃的になる。そのなかでカリスマとなることの危険を達観していたのか?武器を持ち続けると抑圧側にまわるという必然を避けていたのか?ミレレスは放浪の旅へ出て、警察傘下となった自警団はいかなる未来があるのか?

なんてことをアレコレ考えてたらあっという間に目的地に着きました。さあ旅を続けよう。

アメリカ側ボーダーでのプアホワイト自警団の成り立ちも非常に興味ぶかいしシンプルにはわりきれないのですがこれは映画を観てのお楽しみ。



以上



by zhuangyuan | 2016-05-05 18:25 | 映画 | Comments(0)
2016年 03月 04日

観察映画ってなんだ?「牡蠣工場」に中国がやってくる

観察映画「牡蠣工場(かきこうば)」鑑賞
d0018375_21220482.jpg

瀬戸内海岡山県牛窓にある牡蠣工場にカメラが入りひたすらに牡蠣の殻をむく作業が続く。



「中国来る」

スケジュールボードに書き込みあり。

作業員の高齢化にともなう人出不足から中国から研修生を呼び寄せる。となり町にはずいぶん多くの中国人が働いているらしいが、この町にはまだわずか。舞台である工場に来るのは初めてのこと。

近所の工場では数日でやめちゃった。
中国人はマナーわるいらしいよ。
事件もあったしね。
町の噂が聞こえてくる。

期待と不安、あきらめ、緊張が交互に訪れるも
時間は着実に日を重ね、Xデーが近づく。

準備も大変です。
住むところも用意しないとね。
言葉は通じるのかな?

こんなやりとりをする様子を解説なしで写し撮ってゆく。観察映画。
観察を通して、その人の歩いてきた人となりが浮かび上がってくる。

年老いたオーナー、継がない息子、東北から来た後継者、街の若者たち、牡蠣をむくおばちゃんたち。彼らを撮しているだけで彼らの人生が詩のように浮かび上がってくるんです。

町への愛着、誇り、狭いコミュニティの圧迫感、都会への憧れ、政府の無策へのあきらめ。

目の前に広がる美しい瀬戸内海は世界につながっている。毎日、静かに船が往来している。牛窓もかつて朝鮮通信使も宿にしたといいます。さらに昔は都にのぼる渡来人も通ったことでしょう。つまり歴史的にずうっとグローバルであったはず。でも外へつながる海が逆に町を陸に閉じ込めたようにも思えるのです。車時代に往来から外れている町。いつの間にか外から入ってるのがむずかしいコミュニティになってしまう。そこに過疎があり産業がよわり、そうして皮肉にもまた中国から人がやってくる。

実はそこんとこは中国も一緒です。明や清の時代に海禁政策をとった。
国家が貿易独占を企んだり、倭寇をおそれるあまり締め付けたりして、人々が海へ出ることを取り締まったのです。
その結果、漁民や商人が海を自由自在に行き来して繁栄した国家が内向きになりついには衰弱へむかう。するとまた外からひとが入ってくる。

グローバル経済のなか日本も安い労働力をもとめて仕事が外へでてゆく、その結果田舎町は過疎へとすすみ、人手がたりない。今度はそとからひとを呼んでくる。

でもってそうして牡蠣工場にやって来た中国青年二人は笑顔いっぱいに、ヘタクソな日本語を一生懸命使うんです。出迎える側も頑張ります。子供たちもいっしょになってみんなで中国語勉強してる。ニーハオマ?ニーマンマってのもあるよー!子供たちうれしそう。你忙吗?ni mang maのことですよ。

お互いを受け入れようとする気持ちが画面から伝わってきます。牡蠣工場のおばちゃんたちもはにかみながらご挨拶。なぜかときどき英語が混じる。外人は英語通じると思ってる。かわいい。

彼我をへだてる壁なんて人間個人が勝手に作ったメンタルブロックなんでしょう。通じようという意思があれば理解し合える。言葉なんて自然とできるはず。

そんなブロックがないのはいつでもどこでも脇目も振らずマイペースに走り回る子供たちと、何度も登場する白い猫ちゃんだけ。

いろいろ想像してたら145分があっという間でした。とにかく美しいんですよね海が。

以上



by zhuangyuan | 2016-03-04 21:43 | 映画 | Comments(0)
2016年 02月 21日

「火の山のマリア」 火山灰と資本主義の果て

d0018375_22331543.jpg
グアテマラ映画「火の山のマリア」鑑賞@岩波ホール

ずいぶん前に予告を観て以来楽しみにしていました。というのも私は24年前にグアテマラに行ったことがあるからです。ロスからカミオン(バス)でメキシコを経由してはるばるグアテマラへ。先住民の衣装が色とりどりで印象に残っています。ただ当時、民族によっては写真は魂を抜き取ってしまうと信じられカメラを向けない方がよいとアドバイスされていました。私はバックパッカーでしたのでカメラを持ち歩くと、保管や防犯などが気になるため、あまり写真は撮らない主義でした。それでも民族ごとに違う衣装が興味深く、記念に残したいと何枚かの写真を撮りました。しかし民族の呪いか、その後バックパックを失いました。フィルムを取り戻したく1日かけた捜索でなんとか取り戻したのですが、帰国後に現像すると全て真っ黒でした。というわけで写真はなし。民族衣装は買って帰りましたけどね。
写真は岩波ホール陳列のもの。
d0018375_22332530.jpg

映画の舞台は荒涼な火山地帯。主人公は先住民の若い娘。両親は小作農で痩せた土地を耕します。収穫をあげないと土地を接収されてしまう。娘は年上の地主に嫁入りを控えているのです。しかし若い娘は別の若者が気になっている。

火山信仰を持つ家族は、わずかではあるものの大地の恵みに感謝を欠かさない。しかし一方では世界を覆う資本主義の影が足元に迫まり、自らの貧しさにも気づいている。山に祈りは捧げるが、日々の暮らしの理不尽にも思いが至る。母親は日々の生活をたくましく切り盛りしているが、父親は地主を介して経済に組み込まれている。そして打算なのか娘を嫁がせる段取りをしている。文明と信仰の間。山の神を信じたいが貧しい生活にこころがゆれる。

大量生産経済は火山灰に覆われた僻地にまで到達している。井戸の水を浄化させるため薬品を投入し、農地の蛇を駆除するために農薬をまく、それがことごとく効果が見えない。これは地主から買ってるんでしょうね。農協みたいに。へたすりゃ借金して。資本主義の末端。弱いものへのしわ寄せ。地主も人は良さげだが、大きなシステムに巻き込まれているからか、弱さゆえの、受動的邪悪さが垣間見られる。地主と小作人家族を分かつものそれは、政府の言語としてのスペイン語。家族は全く解さない。

マリアが気になっている若者はアメリカに行くことを決めている。今は土地でコーヒー摘みをしている。マリアもアメリカに憧れを抱いている。火山の向こうにある別世界。差別や辛い生活があるとは分かりつつも、その先にあるであろう物質的豊かさ。彼女がほしいのは彼なのかアメリカなのか?山岳民族からみれば遥か彼方であるものの、すぐそばまで来ているんですよね。村にもアメリカ経験者もいるし、車も、薬もおそらくアメリカ。遠くでいながら近い。でも遠い。

コーヒー摘みの若者たちは街から来ている買い付け業者に、収穫物を重量売りする。バーで前借りしていて報酬をえられない若物がいる。低賃金で酷使するだけでなく、お酒でもふんだくる。抵抗する若者はコーヒーに水を含ませて重くするがあえなく発覚。でもこのちょろまかしは行き詰まった資本主義を暗示しています。

圧倒的かつ荘厳な火山風景と神秘的な民族生活を描写しつつ、現実の生活の苦しさとそこに絡んでくるグローバル経済。ドキュメンタリー的なタッチだがあっとおどろく物語も組み込まれています。

もっとたくさん書きたいけどネタバレになるのでやめときます。
旅好き語学好きのみなさまにおすすめします。

以上


by zhuangyuan | 2016-02-21 23:02 | 映画 | Comments(0)