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中華 状元への道

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2016年 12月 04日

間から声があふれだす

「声の氾濫」と題するパフォーマンスに浸ってきた。語りと音楽の融合。テーマがいずれも私のツボをついてきて脳みそが熱を持ちすぎた。おかげで夜も眠れない。1時間おきに目が醒める。声がぐるぐるまわってる。
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リワイルディング 新しい野生化
日本語 中国語 台湾語
方言 南部弁 東北
時を超える旅と語り

第2部の討論会で司会の中村和恵さんが言った。
4人のテーマはいずれも「間にあるもの」と言えると。間からの叫び。ただその間には暴力の影が感じられると。

オランダの打ち捨てられた干拓地が自然の力のみで再野生化する。そこは決して原生林ではないが二次林のような力強さがある。人間の手を入れず自然が再構成されて行く。そのイメージは福島の再生ともつながる。しかしこちらには不遜な人間が不恰好な手を入れつつある。権力を背景に。人間の作為と不作為の果て。そしてその間。

近代の歴史の波間で漂う台湾もしかり。権力と結びついた言葉の支配と教育があった。台湾では国の定義すら言葉に弄ばれる。温又柔さんは言う。なぜ自分が日本語をしゃべっているのか?、それのみが創作者としての関心事だと。パラレルワールドの自分のダブルと思しき女の子、唐咲蓉。彼女が子供時代に母国語として習うのは國語と呼ぶ中国語。学校で一斉に唱えるのはJiang Zongtong Wansui ! 蔣總統萬歲! 國語で温さんが発した言葉に動揺して鳥肌がたちました。そして続ける。光復大陸!彼らのしゃべる國語は台湾の地すらも故郷としない。アイデンティティを求めるその先の曖昧さと危うさ、もっというなら醜悪さ。まさに間からの叫び。そこは割り切れない世界。

木村友祐さんは故郷に帰って方言でしゃべるときの心の伸びやかさを感じるという。経済至上主義の標準語教育により異質なもの、遅れたものとされた方言。標準語と相対するときしゃべる者をも自ら劣等感を抱かせる方言。木村さんは「まづろわぬ民」=服従しない民の言葉として方言をイサに化身して再生させる。自身より一世代前の濃密な方言をまとう。そして叫ぶ。「さがべ」と背をおす。方言での朗読、というか絶唱が、大きな流れとあらがうもの、流れから取り残された全てものたちにに普遍的に響く。そんな木村さんも東京に出てきて暮らしていると故郷八戸でも同じ時間が流れていることをしばし忘れていたという。東京中心主義標準化画一化。間のない世界。間のからの叫びが聞こえた。

姜信子さんは旅の言葉を声にしたいという。文章家はとかく論理や実証を求めがちだが矛盾しているもの、理屈の合わないものにこそ真実が宿っていると。そして理屈のない旅のコトバはどこかでみんなつながっているんだと。中村和恵さんはそれを「巨大なお芋」と表現した。一個掘り出すとどんどこどんどこつながってる。

アルバニアの地で管啓次郎さんが朗読した日本語の詩にアルバニア人聴衆が涙したことを思い出す。お芋はつながってる。

旅する詩人管啓次郎さんは言う。人は世界で見たものを書いて伝えなきゃいけないと。だから私も書いてみた。

頭を少し整理したから今日は眠れるかな?

以上








by zhuangyuan | 2016-12-04 17:19 | 言葉


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