人気ブログランキング | 話題のタグを見る

中華 状元への道

zhuangyuan.exblog.jp
ブログトップ
2021年 09月 29日

台湾レインボーヒストリー

台湾レインボーヒストリー_d0018375_20283608.jpg

台湾レインボーヒストリー_d0018375_20001760.jpg
Web中国語原書会に参加した。
こんな時代だから初めてテレワークスペースを借りてみた。直前に予約して10分前に部屋に入る。スタンバイOK。

実は別の用事と重なってしまい私の発表を終えると途中退出せざるを得ず強者たちの発表が聴けずに無念でありました。

そんな私が選んだ作品は「フォルモサに咲く花」(陳耀昌著 下村作次郎訳)。19世紀の台湾を舞台にしています。
原書会なのですが今回は翻訳書をメインとして原書を参照しながら読みました。原書「傀儡花」はKindleで購入。参照するのには最強のツールですね。

台湾が舞台とはいえ、日本で一般には馴染みのない原住民に関わる事件を描いています。

原書会のルールでは本の紹介を5分で行うのが基本なのだがこの大作の魅力を伝えるには5分では足りない。パワポで補足しつつ8分くらいになったかな。でもそれでも私の想いは伝えきれていないので、ブログに書くことにした。


1867年にアメリカの帆船ローバー号が台湾最南端の海岸沖で座礁した。上陸した乗組員13人は現地人に殺されてしまう。そこで国際問題に発展する。駐厦門アメリカ領事が解決にあたるが責任を負わされた清朝としても最南端は「化外の地」とされ領地でありながら支配が及ばない。そこではさまざまな部族土地土地を管理していた。その地域を討伐すべく軍隊が出動するのだ。

大きな歴史の中では台湾は「化外の地」だった。17世紀にオランダが統治した後は、清朝が台湾への渡航を禁じ歴史から消えた。そしてふたたび歴史に現れるのがこのローバー号事件なのだ。

1867年というと日本は大政奉還の年で、その前に浦賀にペリーが来ているのです。さらにその前の1840年には阿片戦争があり欧米帝国主義が圧倒的な力を持っていた時代背景がある。台湾最南端の一部の話でなく大きな歴史の流れにあるということも理解できる。アメリカ領事は先人ペリーの台湾への関心にも言及している。アメリカ人から見ると台湾の原住民はアメリカ大陸におけるインディアンだった。清国も原住民を征伐しなきゃ行けないということになる。

ではその歴史というものは何か?それは時の支配者によって作られる。過去の解釈も支配者の都合で書き換えられる。史実とは書かれたものだ。この物語でいえば、台湾に来た西洋人、清朝の役人たちが記録したものが歴史となる。この事件後にアメリカや清朝に対抗すべく現地部族スカロのリーダー、トキトクは周辺の部族を大連合させてこの事態に対処するのだが、その彼は当時の台湾で西洋人にもっともよく知られたフォルモサ人だったと本書の後記にある。とはいえそれは西洋人や清朝の記録に記載されたというだけのこと。つまり彼の名前がアルファベットだか漢字で記された。原住民は文字を持たないために記録が残っていない。そこに小説という仕掛けが重要になってくる。化外の地の文明を持たない野蛮人と記録されようがそれはあくまで「文明化」された価値観からの評価である。そこには彼ら生活があって、伝統があって、文化がある。小説の中では彼らも語り出すのです。アメリカ船員の殺害も少数民族の歴史を踏まえると彼らの論理があるのです。それを文明化というひとつの尺度で生番だとか熟番だとかと名付けて同化させてきたのだが、少数民族にも多様な考え方、生き方があるのです。文明化させてあげなきゃいけないという論理、南米大陸においては先住民族インディオはキリスト教と言葉でで感化してきた。それと同じ。今のアフガニスタンのタリバンだって...。

この物語の舞台ははさまざまな民族が共存する場所だ。翻訳書にはその民族の解説がある。傀儡番、生番、平埔族、福佬人、客家人...。だがもちろんきっちり線を引けるわけではない。

主人公の蝶妹は客家と傀儡番の混血だ。これが肝。客家は大陸から渡ってきているが、福建から先に渡って来た福佬人とは異質なコミュニティを作っている。彼女の父親がその客家で、原住民にも慕われ交易もしている。そして原住民女性と父親の間に生まれたのが主人公蝶妹だ。もちろん彼女は両方の言葉を話せる。そして好奇心旺盛で西洋人の医学にも興味をもちアメリカ領事ルジャンドルとも繋がるのだ。このルジャンドルが部族を討伐すべく清朝をけしかける。アメリカ+清朝vs部族連合の戦争を回避すべく彼女とその弟文杰が物語を回してゆく。欧米諸国の覇権的思考、清国末期の役人の考え、そこに先住民族の文化がぶつかる。それをつなぐ姉と弟。その原住民の母親は実は...。

台湾では自らのアイデンティティを再認識すべく原住民の豊かな文化を再評価しつつあるが、この小説はテレビドラマ化された。
「斯卡羅 Formosa 1867」
台湾のオードリー・タンも絶賛していた。台湾のRainbow history の流れの中にあるTranscultural identity を知ることができるという。さすが上手いこと言うね。

ちなみにレインボーヒストリーのある多様な文化を徹底的な内地化で取り込んだのはこのあとやってきた日本だというのは忘れちゃいけない。

圧巻の大河小説だった。
このさまざまな民族と言葉と歴史が織り込まれた。原書を見事に日本語にされた翻訳家に敬意を表します。

以上





# by zhuangyuan | 2021-09-29 19:58 | 中国関連DVD、本
2021年 01月 23日

飛び魚が跳ねる夜の海で

久しぶりに中国語原書会に参加しました。

今回は大阪主催。
オンラインだと大阪の集いまで参加できちゃう。

ブログやTwitterなどでニックネームで知ってた方が動いて喋ってる。

全国の原書好きがとっておきの中国語原書をオススメする。

今日紹介した本はこちらです。
スピーチ時間は3分。

「大海浮夢」
飛び魚が跳ねる夜の海で_d0018375_19595708.jpg

台湾の海洋文学作家が書いた自伝的小説です。

台湾というと大陸から来た国民党の中華民国の要素とかつて日本の領土だったという面がありますが、
忘れてならないのは太古から台湾にいる多様な原住民のことですね。

作家はシャマン・ラポガンさんと言いまして蘭嶼島の海洋民族達悟族出身です。つまり台湾島ではない。
小説では文明化した漢人の台湾を別の国のように「台湾」と呼びます。

蘭嶼でも世界の島嶼地域と同じく中央から文明化の波がやってくる。つまり野蛮人を教育しなきゃならないと。
親の世代は小学校に行く彼を諭します。漢人の学校でいい成績取るなと。
海と共生する島の文化を守るように。男なら船を作って魚を釣れと。

中央の教育とは中国語でいう「驯化 xunhua」だったと言います。家畜を馴らすという字です。

でもその識字教育に彼は疑問を持ちつつも
青年救国団として島にやってきた大学生に言われたんですね
「世界は広いよ、水平線の向こうには無数の島が広がってるのよ。
しっかり勉強して世界に出なさい」

この言葉が胸に残り中学を出ると
大反対を振り切って島を出て勉強を続けます。そのまま都会に残り大学では文学を学ぶのです。

その頃になると島の人々教えが蘇り、その哲学の深さがわかり、島の文化の中で生きようと決心して島に戻るのです。

私が圧倒された島のおじさんの逸話を紹介します。

島では飛魚漁が盛んですが
おじさんが子供のころに弟と漁にでました。

漆黒の闇に輝く月が動くなか船を漕ぐ、周囲には7-80艘の漁船がある、
月が中天に登った時に海一面に、無数の飛魚が跳ねだすんです。海鳥もそれを狙って大量に乱舞している。
その群れのいる面積は自分たちの部落ほどに広い。
すると突然、巨大なマグロが海面から飛び上がった。飛魚を空中で捕食するのだ。
その飛び上がった真っ黒なうねる物体、圓滾滾的黑色身體、は彼らの漕ぐ小さな船の竜骨の上にドカンと落ちたのです。
最高の高級魚を捕まえるため、小さな体で身体ごとかぶさり必死にエラを引き裂いて割いてマグロを捕獲したのです。
そして村に歌いながら船を漕いで帰った。そしてオレたちは英雄になったんじゃ。

こんなかんじ。

どうですか?
いいでしょ?

この場面を読むだけでも
この作品を読む価値があると思います。

私は漢字の持つイメージ喚起力にいつもやられてしまうのですがこのおじさんの言わば自慢話を書く文章は最高です。

小説では中央と周辺の多元文化について、ラテンアメリカのコロンブス以来の西洋中心主義を批判していました。でもラテンアメリカにはインディオの境遇をインディオ自身が書いた世界的文学はないそうです。その意味でもシャマンさんが彼自身の文化哲学を書いた意義は大きいですね。しかも「世界言語」の中国語で書いてますからこうして我々まで届いている。

日本語訳もありますよ。

下村作次郎さん翻訳
「大海を生きる夢」
日本でヘテロトピア文学賞
を受賞しています。この賞の受賞作は全部面白いので一読をオススメします。

ここまでが私のスピーチ時間の概要だが、最後にオブザーバーの方からこの紹介で湧き上がった思い出を披露してくれた。

彼女はかつて台湾高雄に住んでいた。ある日友人から電話があったそうで、友人曰く、今朝マグロ漁に出てでっかい獲物が釣れたよ。
今から食べに来ないか?と。もちろんすぐに駆けつけて彼女は客人として大トロ部分を頂いちゃったそうです。ああうらやましい!

私最近他の言語に浮気ばかりしていますが、やっぱり中国語世界はホームグラウンドだと感じるのです。


以上






# by zhuangyuan | 2021-01-23 19:54 | 中国関連DVD、本
2020年 07月 15日

改革開放は恋の季節?

改革開放は恋の季節?_d0018375_07544317.jpg

雨の日曜日は中国語原書会だった。2020年夏のご時勢を鑑み、高いひさし付きのオープンエアカフェで開催。時折、雨が風に煽られて吹き込み、都度傘をさしつつも、心地よい屋外のチェアで過ごした濃密なひとときだった。2時間があっという間に過ぎる。私自身は最近フランス語学習にかける時間が多いのだが、やっぱり中国語が好き。ホームグラウンドに帰ってきたって感覚がある。

今回は1980年発表された短編小説をみんなで読んで会に臨んだ。

張抗抗著「夏」

文革が終わり徐々に思想が開放されてゆく瞬間の、ひと夏の、高校生の淡い恋?を描いたもの。黒竜江省の夏はとりわけ短い。それだけに輝いている。

女性作家のこの名前を見ただけでも政治色が濃い時代を育ったのがわかる。援朝抗美(朝鮮を助けて米国に抗う)の抗。抗日战争の抗とも言える。

四人組が追放されたとはいえ、政治情勢はまだまだ定まらないお堅い世の中に生きる若者たちの時折政治性の混じる、おっかなびっくりの交流を描き、40年後の今もなお瑞々しさが色あせない。私は惚れちゃいますよ、謎めいた少女岑朗に。彼女だけが時代のしがらみからすっかり抜けきっている感があるのだ。少しの憂いを垣間見せつつも奔放に生きてる。

物語の始まりはバスケットボールをやる男子たち。主人公男子梁一波はどうやらスポーツ万能で、少なくとも自分はそう思ってる。ところが観衆たちはゲーム進行ではなく何やら別のものに興味が移りザワザワしてる。彼が脱ぎ捨てたシャツのポケットから女子生徒の写真が落ちたのだ。みんなはそれを回し見てる。写真に写っているのは先ほどの不思議女子。彼女が14歳の頃に撮った海辺での写真だ。いや別に彼女の写真だからってわけでなく、海がとてもきれいだし、カメラマンの撮影テクが超絶だからもらったんだし。

その写真は優等生女子呉宏に渡る。お堅い彼女は思想的にも模範的で、水着の写真をしばらく預かっておくわと持って帰ってしまう。彼女は下放された農村で働き大学入学が遅れた経歴を持つ。一斉テスト再開で合格してきた苦学生だ。時代的意味で、学生の本分について信念を持っている。社会の政治規範となるべし。

この2人に挟まれて翻弄される男子梁一波くん。男子は幼いんだよね。ピュアでさ。とは言いながらも優等生なので「学习委员」に指名されてるけどね。ここに葛藤がある。

この3人の個人の思いがこれまでの来し方によって、政治情勢の変化の中で、微妙なズレを起こす。文革、下放政策、労働、四人組失脚、学問の意義、思想開放、とにかく激流のように政治が動く。極左思想を唱えていればよかった文革時代から、鎖が解かれ、自分というものが前に浮き出てくる時代への変化。自分で決める。学問も恋愛も。そんな時代を迎えてると思わせる。

爽やか岑朗ちゃんと江青メガネ(私の妄想)の呉宏さんのやりとりクラスでのはこんな感じ。

江青メガネがクラスみんなに問う。

“当前,我们班级面临的主要矛盾是什么?”

「現在、我々クラスが直面している主要な矛盾はなんだろうか?」

彼女はまず意見を述べるが誰も反対はできない。クラス委員の梁くんも意見は違っても発言できない。

ところが軽やかに手をあげる美少女(想像)が言う。

“我想,大学是通向四个现代化的桥梁。

中略

因此,我觉得是否应该这样,认为学校的主要矛盾就是获取知识和知识贫乏的矛盾···”

「私は思うんだけど、大学ってのは四つの現代化の柱でしょ。

だからこうじゃないかって思うんだ。学校の主要な矛盾はさ、知識獲得と知識貧弱に関するじゃない?」

静まりかえるクラス
口を開いた呉さんがみんなに問いかける。いまの彼女の意見についてみんなで議論すべきじゃない?こわ。


“社会上的阶级斗争那么尖锐复杂,我们的学园里你怎么就会那么平安无事?‘四人帮’的流毒那么深,我们能离开阶级斗争去培养人才吗?”

「社会の階級闘争があれほど先鋭化、複雑化してるのに、私たちの学校であなたどうしてそんなに平穏無事でいられるわけ?四人組が撒き散らした毒があんなにも深いのに、我々は階級闘争を離れて人材育成ですって?」

時代の緊迫感が伝わるやりとりだ。こんなディープな政治ネタで瑞々しい青春小説を書き上げる作家の腕は相当なものでしょ。夜の図書館デートなんてドキドキするよ。この開放感はこのまま続くのかな?それとも黒竜江省の夏の如く...。


読書会の醍醐味はというと、意図せずにこんな作品に出会えることだろう。自分では手に取らないはずの1980年の短編に触れる。短い文章の中にその時代の光と影が詰まってる。

しかも参加者の読み方が、それぞれの読者としての来し方が異なるゆえに、十人十色ってのってのも理解を深めてゆく一助となる。正確にいうと参加者5人だから5色だな。そういえば五星紅旗の星はみんな黄色で個性がないな。

2002年に中国語を始めた遅れてきた中国通の私にとって文革直後の中国の空気感を知ることは得難い経験である。

主催者のねずみのチュー太郎さんは小説刊行直後に読まれたそうで、当時感じた新鮮な衝撃を伝えてくれた。文革で反党の烙印を押された文学者はほとんど追放され、政治的正しさのみを忖度した杓子定規な文章があふれて読む価値のある文学は消えた。四人組打倒後に鮮烈に現れた青春小説だったという。配布していただいた参考資料に当時の政治キーワードの説明や年表も添えられ時代性が浮かび上がる。

ちなみに私は、お堅い呉宏さんの心の揺らぎにもシンパシーを抱く。彼女は苦労して学生になった。文革で大学試験がなくなっていたのだ。再開後に大学を受けられると言うことは党から思想的に認められたということ。ゆえに時代趨勢に変化が生じている当時においても過去からの思想の流れを引きずっている。ほかの2人が自由な行動をすればするほど、開放された発言をするたびに、さらに厳格に思想的正しさを求める。彼女も時代の変化に気付いている。開放にも憧れてるはずだ。しかし過去を否定することはできない。来し方を肯定するために、ますます旧思想に厳格になる。恋もしているのを隠すためにも。でも自分はそれを決して認めない。なんかわかるんだよね。急速な変化が軽薄に思えて許容できないのだ。

この作品のキーワードが頻出する言葉「鎖」であるという参加者からの指摘も、作品理解が深める一助になった。思想的鎖が徐々に解けてゆく瞬間の若者たちが愛おしい。

中国語の先生が好きだったという曲を思い出した。

とにかく明るい性格の彼女も学生時代貴州省で労働体験した世代だが、80年代末のヒットソングに心を揺さぶられたという。「跟着感觉走」(感情のままに行く)
感情のままに生きてもよい世界があるってことに感動したそうだ。鎖のない世界があるんだ。主人公の2人がデートする松花江の岸部のようにきらめく川は遠くで自由な海に注いでるはず。

時代のうねりに翻弄される小さな自分物、こういう小説に私はいつも揺さぶられる。

以上


# by zhuangyuan | 2020-07-15 07:51 | 文化、歴史
2019年 12月 03日

「動物のいのち2」を感じる

「動物のいのち2」を感じる_d0018375_06025472.jpg

 ここ数年、年末になると明治大学管啓次郎研究室主催のシンポジウムを聴講するのが楽しみだ。毎年想像を上回る衝撃を与えられる。今年は時間の都合で第二部までしか体験出来なかったが、脳がスパークして熱を帯びてしまい、しばらく頭のカオスが整理されない。備忘録として残したい。いつか記憶発動スイッチとして使うために。

 今年のテーマは「動物のいのち2」2ってことは1があるわけで、それは2014年だったと。もう5年も経ったのか。

 赤阪友昭さんの写真にのっけから度肝を抜かれる。エスキモーの孤絶した居住地、空に飛び上がり鯨を探す女性、薄桃色に氷る鯨脂。土地に生きる人々。モンゴルにはトナカイを追って暮らす民族がいる。群れと共に移動するのだが、トナカイの恵みを利用するために囲ったり、捕えたりしない。トナカイたちは自ら人の集落にやってくる。遠く離れても戻ってくる。群れが来ると人たちは乳をとる。時には屠殺する。ただし群れの個体数を意識しながら。数が減ると自らが飢える局面でも食べない。人間も生態システムの一部になっている。そもそも人間だけ外部者にはなり得ない。

システムといえば人類学者奥野克巳さんはボルネオのジャングルでの共生の話をしてくれた。長尺の吹き矢を持って現れた奥野さんは本当に吹き矢を吹いた。放たれた矢は想像を超えるスピードと軌道で講堂の壁高くに突き刺さった。ジャングルは真剣勝負だ。ジャングルにはことわざがあるという。「蜜蜂が巣を作ったら毒矢を作れ」時が来るとジャングルでは一斉に花が咲く。すると蜜蜂がやってくる。次に来るのは結実でそこにやってくる動物たちを目当てに毒矢を作る。ジャングルに入ってヤドクガエル捕まえて。私の脳裏にヤドクガエルの不気味にぬめる原色が光った。美しい。

ボルネオのジャングルは私も経験があるが圧倒的な植物に無力感を感じた。その一方でジャングルを外から壊すグローバル資本主義ってやつもある。

人間が特別な存在として自然を統治する思想は古代エジプトのミイラに見出せると石倉敏明さんが写真付きで紹介する。王に捧げられた多種多様な動物たちのミイラ。死後の世界に生きるため殺されて布でぐるぐるに巻かれ保存される。支配者としての人間。

自然と共生する人間と支配する人間の両方の役を負っているマタギの話もモヤモヤを与えてくれた。獲物をとる前日に獲物が夢に出てくるというマタギ、彼らは現在社会では有害動物駆除の仕事も請け負っている。その数はマタギとして狩る数に10倍だと。

金井真紀さんは鵜と鵜匠の話をしてくれた。鵜飼いの鵜の惨めさはサラリーマンに喩えられたりするわけで、なんともざわざわするわけですが、金井さんが軽妙な語り口で朗読してくれた御自身のルポ?は視野をググっと広げてくれた。取材した鵜匠が飼う鵜は羽根を切らない。つまり逃げないのだ。しかもその鵜はそこで生まれたわけではない。鵜飼いの鵜のつがいは子をなさない。雛が連れてこられて一緒に暮らす。するとすぐにそこの社会に慣れて逃げないのだ。鵜飼いのおじさんは優しく「なぶって」くれる。なでててくれる。逃げないんだから幸せなんだろとおじさんが長良川の方言でいう。鵜のつがいは仕事終わりに苦労を慰め合うのだそうだ。鵜から人生を学んだというおじさんと鵜は共生してる。少し救われた気がする。

Aki Inomataさんの作品はカワウソと人の共同作業だ。カワウソが齧った木の幹がアートになる。それを彫刻家が模写して3倍大の作品にする。齧られた彫像がトルソーにも見えると。

管啓次郎さんがエレキギター片手にブルース語りしたのは牛舎の柱についてだった。何もいないがらんとした牛舎に残るその柱もどれも齧られていた。飢えた牛たちによって齧られていたのだ。Fukushimaから程近い牛舎では牛を残して全民避難した。齧られた柱は凄まじい生への執着。牛たちは憤激の嘶きが聴こえる。管さんのギターも泣いた。But not gently this time.

烏につきまとう死のイメージはどこから来たのだろうか。倉石信乃さんが紹介してくれたのは墓石に備えた団子説。団子に群がったら不吉なイメージをつけられた。彼らはの黒もそれに拍車をかけた。黒は見えないに繋がる。わからないものは忌避したくなる。

温又柔さんは、子供の頃、近所のタコ公園に出没する得体の知れない生物の噂が気になって仕方がなかった。友達が語るソレの名前はルンペン。ついに本物に出会った時、心底驚いた。それは人間だったのだ。ルンペンプロレタリアート。人間社会から外されるのは役に立たない動物だけでない。人は来歴も知らずに人をも忌避する。線の内側と外側にきれいに分けたがる。それは人種だったり国籍にも通ずる。線を引いて、名前をつけて。温さんが行ったのは純粋雑種宣言。温さんの魂に何かが降りた。傍らにはオレンジ色の小さなドラえもんが光っていた。ドラえもんこそ雑種だな。猫なのにロボットでしかも耳がない。でもそこにいたのはさらにハイブリッドだ。オレンジ色でしかもおそらく藤子不二雄ですらない。純粋な雑種だ。

そもそも分けられるのか?人と人を、人と動物を。はたまた植物を。オランダ在住内藤まりこさんはこのシンポジウムのテーマ「人間は動物に何を負ってきたのか?」という副題に疑問を抱く。負うとはなんぞや?中世の和歌集から詠み手と鹿が一体化する例をひき、四人称を定義する。一人称と三人称が合わさり四人称だ。動物と一体になりつつ思考する、発信する。本日の登壇者すべてに通じてる。

そこでやっと分かった、いや分けちゃいね、感じたんだ。シンポジウムの2番目に登壇した今貂子さんの舞踏の意味を。日本髪におしろい、赤いふんどしという出で立ちはまるで社会化人間を揶揄したようだ。黒い静寂の中を動き始める筋肉は皮膚の艶まで変化した。緊張と弛緩。野獣と人を行ったり来たりするように。ひとり四人称と言えないか。そもそもお名前も貂子(てんこ)さんだ。貂蟬を思い出す。

動物のいのちというテーマでこれだけ多様なアプローチがあるとは。しかも各々が混じり合って共鳴し脳内で唸り出す。もちろん第三部にもさらに多様な表現が出てきただろうが、これ以上は知恵熱が出てしまったかも知れない。濃密な三時間。まさにライブだ。まだ熱を帯びてる。前日に読んだ芥川の「ある阿呆の一生」の一説が頭に浮かんだ。”The cable was still sending sharp sparks into the air.”曇天の架空線に紫色の火花が散ってる。芥川はそれをどうしてつかまえたいと願うのです。

以上













# by zhuangyuan | 2019-12-03 06:02 | 文化、歴史
2019年 08月 24日

映画「ムアラフ 改心」ヤスミンは世界を救う

「ムアラフ 改心」

ヤスミン・アフマド監督作品

映画「ムアラフ 改心」ヤスミンは世界を救う_d0018375_21020224.jpeg

彼女の作品はどれも素晴らしい。特に言葉と文化のごちゃ混ぜ感がツボにはまる。


ムアラフ Muallaf という言葉はイスラム教に改宗した人を指すという。昨今イスラムというと過激なイメージがあり、鑑賞を敬遠する向きもあるかも知れないがこの作品はそれとま反対の許しと寛容の物語だ。


ムスリムであるアニ(Rohani)とアナ(Rohana)の姉妹は家出をして知人の空き家で暮らしている。姉は暮らしを支えるためパブでバイトしてる。ムスリムなのに。妹はクリスチャンの学校に通う。ムスリムなのに。


妹は事あるごとにコーランの警句の番号を唱える。姉のバイトも常に心配の種だ。


その少女ながらに揺るがない真摯な態度に違和感を覚える教師もいる。いつしか度を越して体罰をするクリスチャンスクールなのに。


そこの青年教師は故郷の母親の勧めを常にぞんざいに断り教会に行かない。クリスチャンスクールの先生なのに。


パブの先輩ホステスは人気のあるアニを妬み意地悪する。アニはお酒を飲まないし、客にお酒を控えさせてるとボスにチクる。しかし肝心な時にはアニを守ってくれる。


マレーシアは多民族国家。マレー人中国人タミル人など。そこに金持ち国家シンガポールが絡んでくる。映画でも姉妹はマレー人、体罰教師はインド人、パブの先輩と青年教師はおそらく中国系だ。姉妹の亡くなった母親はシンガポールで大学教授だった。ムスリムでマレー人の夫にはインテリ女性は気に入らないようだ。

映画「ムアラフ 改心」ヤスミンは世界を救う_d0018375_21001295.jpg

マレーシアは宗教も多様である。ムスリムだけじゃない。クリスチャン、ヒンドゥー、仏教、道教。人はそれぞれ宗教の規範や民族の文化を身につけて暮らしてる。グループになると時には相容れずに争う事もある。ただ個人に戻るとそのグループの規範を外れる事もある。規範を守る側は時に正義に身を縛られてはみ出しものを締め付ける。縛られる側は心が折れることもある。それぞれが葛藤と鬱屈を抱えつつ多文化社会で生きている。規律だったり信仰心だったり男女の役割だったり、酒だったり。しかも資本主義競争社会の中ではそれがデフォルメされる。映画でもその軋轢がしばしば暴力として鮮烈に表出する。弱者が煽りを受ける。この姉妹もしかり。でもこの姉妹は常に許すのだ。さらには他の弱者への愛を与える。宗教的寛容と慈愛。それは宗教を超えている。


妹はある意味、アダルトチルドレン的といえるかもしれない。幼い頃から家族の争いを見てきたせいだろう、常にコーランの警句が思い浮かぶ。しかし番号を唱えるだけなのだ。言葉は受け入れる準備のない時には時にtoo muchとなる。アラビア語で唱えないのもある種の曖昧性を残したいから。つまり原理主義には陥らないため。


この真面目すぎる聖女のような妹とちょっといい加減でユーモラスな姉がセットになって物語の広がりが出ている。宗教的慈愛も杓子定規でなく曖昧性と寛容さがあってはじめて多文化がともに生きて行けるのだ。


ヤスミン監督の映画を世界じゅうで観れば平和な世の中になるのに。でも問題はそのご当地マレーシアですら相変わらず民族や党派がゴタゴタしてる。出張でマレーシアを訪れてヤスミンの話を振ってみても反応してくれる人は少ないのが実情だ。彼女の映画はある種ファンタジーなのかもしれない。でも観たものには必ず影響を与えることができるはずだ。

映画「ムアラフ 改心」ヤスミンは世界を救う_d0018375_21001113.jpg



# by zhuangyuan | 2019-08-24 21:03 | 文化、歴史