中華 状元への道

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2017年 12月 06日

「火山のめぐみ」とともに

「火山のめぐみ」
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12/2 土曜日、明治大学中野キャンパスまで自転車飛ばしてシンポジウムを聴いてきた。

理工系なのに芸術をやるという不思議な大学院が主催する。司会した管啓次郎さんがおっしゃるこのプログラムには別名がある。PAC=Place, Art, Consciousness 場所、芸術、意識。このシンポジウムは、その名の真骨頂を発揮してる。場所はポリネシアからレイキャビク、霧島連峰からアイヌの地まで。写真、映像、語り、舞踊。神話の世界が意識によって地底から吹き上がる。

 写真家赤阪友昭さんは古事記の話から。稗田阿礼が語った神話は史実かもしれないという。火の神が作った島々は火山噴火の熔岩がもたらした。国つくり後も火山の大爆発は繰り返され文化を埋め尽くし、民族の大移動ももたらした。アラスカ先住民の語り部を日本に呼んだ赤阪さんはいっしょに桜島を訪れ、いにしえの大爆発の話しをする。そこで語り部の記憶が呼び覚まされる。アラスカにカヌーでやってきた民たちはここから来たんだね。文字を持たないアラスカ先住民は民族の記憶を語り部がになう。このお話スケールは8000年。火山が地球を動かしたという万年単位の記憶を現代まで記憶している。爆発と再生の記憶。

 日本で古事記は文字に書かれて外部記憶となった。語り部がいないことで現実とのつながりがうすくなってしまったのではないだろうか。それが地球の裏側の語り部によってふたたびリアルを取り戻したのか?

文字だけでは伝わらないことがある。

 フランス文学者大辻都さんはフラと詩学のお話。フラは、ダンスの動きひとつひとつが詩をあらわしているという。優雅な動きも勇猛な動きもハワイを作った火山をめぐる神話的な詩を含んでいる。ハワイはかつて欧米クリスチャンの世界に組み込まれ、独自文化が衰退する時期があった。洋装フラの写真が印象的だった。しかし今では固有文化が復活しつつある。

 文字でなく踊りに組み込まれたことにより生き残る力がより大きかったのだろうか。

 松田法子さんのレイキャビクに関する話と写真に引きこまれた。火山の国アイスランドは氷の国かと思いきやグリーンが目立つ。熔岩の大地に緑が再生する。森ができて、薪が取れ、暖をとれるようになる。そこに街を作ったのは海の人バイキング。意外にも彼らは都市を作る。レイキャビク、レイキャは煙、ビークは入江。火山が沸かす入江にバイキングは居を構えた。そこはユーラシアプレートと北米プレートの境。アイスランドには大きな割れ目がある。ここで写真スライドは地球の裏側日本へ飛ぶ。奥尻、東北へ。そこの破壊と再生物語。東北大震災の数日後ユーラシアプレートの反対側アイスランドにさらに割れ目ができた。地球はつながっている。

 すぐそこにある再生を映画監督大川景子さんが撮った。熔岩でおおわれた火山島三宅島でイタリアントマトを育てる試みを追う。ドリアン助川さんがニューヨークのメキシコ料理店で食べたというトマトを植えた。育てている農園の方はドリアンさんの熱意に動かされたと語る。1人の意志から再生が始まる。真っ赤な肉厚の実がなった。荒涼とした黒な熔岩の山をバックにブルーのシャツを着たドリアンさんが真紅のトマトを握ってる。この一コマだけで力強い再生の物語が伝わる。トマトを試食した料理店の店長の言葉がささる。何度も火山が爆発してその都度蘇る三宅島に魅力を感じて住んでいる。彼は八丈から来た。そこにはそこの気候にあった文化がある。気候が人と文化を作る。
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 Place, Art, Consciousness 文字だけでは伝わらない世界を確かに受け取った。
私はそれを文字で書いてる。場の共有なしに伝わるかな。まあ自分の備忘録にしておこう。

以上




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by zhuangyuan | 2017-12-06 19:30 | 文化、歴史 | Comments(0)
2017年 12月 03日

戦うのは何のため?

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フランス映画千本ノック
deux jours, une nuit (一泊二日)

 きつい映画でした。資本主義が行き詰まりが世界のあちこちにひずみを生む。弱いところにシワがよる。

二人の母 サンドラは休職明けに復帰すると解雇を伝えられる。休んでいる間にサンドラ抜きでも仕事が回ることがわかった。経営者は残りの従業員に多数決をせまり、サンドラの復職か、退職時に浮いたお金で残りの従業員への1000ユーロボーナスかを選択させた。サンドラが戻るとボーナスは支払えない。結果として退職が決まっていた。復帰そうそう打ちのめされて安定剤に頼るサンドラ。

多数決とは言いながら社長の意を受けた、もしくは忖度した主任が従業員に圧力をかけてボーナスに投票するようにしかけた。これを知ったサンドラは再選挙を要請する。結局中途半端でええカッコしいの社長は再選挙を認める。

ここからサンドラの一泊二日の戦いがはじまる。サンドラの週末の原題はdeux jours, une nuit 一泊二日。同僚ひとりひとりに自分の復職に投票してもらうべくお願いにまわるのだ。

そもそもこうした社長が判断すべき経営課題を従業員の投票にゆだねるという逃げの姿勢が許しがたい。投票という一見すると公平な方法をカモフラージュにして自分のさもしい心をかくす。しかも裏で主任に圧力をかけ解雇を企図する。

社長はサンドラと直接対話を避けつつも、偶然会ってしまうと自社の苦境を言い訳にする。太陽光パネル製造でアジアからの輸入品との熾烈な競争を人員削減の理由としてあげる。流行りの環境ビジネスにとびつくのを見ると、利にーにさといが大局観がない経営手腕が想像できる。

サンドラが訪ねる同僚たちはそれぞれの苦しい立場を説明する。妻の失業、子供の学費、リフォーム費用....。彼らは、サンドラの復帰前の第一回投票において自分のボーナスを選びサンドラの退社に投票している。それぞれ後ろめたさを打ち消すだけの大きな言い訳をしなくてはならない。

一度見えてきたボーナスが消えるかもしれない。当然彼らの家族も反対する。何も悪いことをしていない従業員たちが社長の企んだ投票のために良心をさいなまれる。友情とカネを天秤にかけなければならない。さらに主任は投票結果によりサンドラの復職が決まれば別の誰かが解雇されるとほのめかす。ボーナスだけでなく自分の職もかけなければならない同僚たち。

グローバル経済、雇用の流動化、人件費の変動費化、女性の雇用、移民問題、人種、宗教...

女性の社会進出、ダイバーシティ、民主主義、合理的経営、標語としては響きのいい言葉を杓子定規に表面をなぞるように実践すると個人の心を引き裂いてゆく。でもね、人間は強いんですよ。行動すればね。

95分の短い映画でここまで描くとはこの監督は天才だな。なんども観たらもっと発見がありそう。

あ、フランス語の学習だった。
サンドラと訪問をうけた同僚が繰り返す
<Au revoir >くらいしかわかりません。
Au revoir またね。
つらい「またね」が繰り返される。

ではまた。


以上

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by zhuangyuan | 2017-12-03 08:13 | 中国関連DVD、本 | Comments(0)
2017年 10月 08日

はじめてのおつかい 英語スピーチの巻

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先日英語でスピーチする機会を得た。
頼まれたら即イエスがモットーなので自らの実力は省みずに受けることにした。しかしオファーしてくれた人も無謀だよな、私の英語聴いたことないくせに。

将来TEDでしゃべるときのために今回のプレゼンを振り返っておこうと思う。

会場と聴衆を知れ

TEDスピーチの本(Talk like TED)によると会場と聴衆を知ることが大事。会場はタイ、バンコクのホテルなので下見はできない。では聴衆を知ろう。主催者に問い合わせる。

聴衆は300人以上、出身国27カ国、60%が同業の鉄鋼メーカー、30%がトレーダー、残りはアナリスト、ジャーナリスト。

国数は多いのだが7割近くがインド亜大陸出身。つまりインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ。主催会社がインドの業界メディアであることが影響している。とは言え外国で開催するカンファレンスにこれだけの人を呼び込むのはかなりの集客力を持っていると言える。インドの鉄鋼業については私自身あまり詳しくないが業界においては人口増加に伴う将来の爆発的需要増加に期待が大きい。これから人口ボーナス期を迎えるので約束された未来なのだ。

専門的な事はともかくプレゼンの事から言うとまずは聴衆に私の英語が理解されるされるかどうかが問題だ。なぜなら聴衆もネイティヴスピーカーではない。インドでは英語は公用語ではあるとは言えインド人の話す英語はかなり癖がありヒンドリッシュと揶揄される。

ゆっくり、はっきり

ともかくゆっくり、はっきり話そう。学生のころシドニーにワーキングホリデーにいった際、速く話すことがうまいことだと思っていた私語学学校の先生が言った。

"Speak slowly and clearly"

この言葉は当時カッコつけたい呪縛を解いてくれた。ゆっくりでいいんだと。

今年参加したNHKプレゼン講座でも強調されていた。とにかくゆっくりはっきりと。「はっきり」これけっこう難しい。まず声をしっかり出す。声を出すには呼気が大事。腹から息を強く出しながら話す。そして口をしっかり開けて。発音は口のカタチが大事。当たり前だけど忘れられがち。
わかりやすいプレゼンはしゃべりの抑揚にかかっているとも。強調したいポイントではタメをつくり高めの音で話す。

ロジカルがキー

上記講座で指導されたのは話し方だけではない。スライドの論理構成が、理解しやすいプレゼンの肝であると。以前作った日本語のプレゼン資料はインパクトをねらうばかりに論理が飛躍することや、故意に順番を変えていた。プレゼンは主張を伝えることが目的であり、テレビCMではないのだから過度なインパクトいらない。論理の順番にそってスライドをくみたてよと。これはストンと腑に落ちた。この教えは言語を超えて適用できる。わかりやすい外国語は論理構成がしっかりしている。全部聴き取れなくとも類推で理解できる。今回の英語プレゼンで最大に気を使ったのはこの点だろう。日本で同僚を集めてリハーサルした時には普段英語を使わない後輩にわかりやすい英語であったと評価された。論理展開順にしたことが功を奏したと考えている。

文字は少なめ

そしてスライドは文字を少なめにしてしゃべりを中心にせよと。文字情報が多すぎると聴衆は読むことに集中して話しが耳に入らなくなる。

練習せよ

常に言われることだが本番のように練習することが大事。ただこれはできなかった。リハーサルはしたがPCを前に着席し、抑揚は入れたものの聴衆は見ずに行ったのみ。本番は吹っ切れるがリハーサルは照れが入る。

さて本番である。
まず会場の大きさに驚いた。
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ステージにはスピーカー待機ように大きなソファーがいくつかあり、スライド写す大モニターが左右に1つづつ、中央上部にプレゼンターを映す丸いモニターがある。スピーチはPC及びマイク付きの演台で行う。演台に立つとモニターには顔しか映らない。会場へいたる通路には各社の宣伝用ブースが並び、その部屋にも大モニターが設置されている。

会期は二日間で私の出番は2日目の昼ごろ。初日は登壇者の観察。参考になるところはないかと。

皆さん文字が多すぎる。
確かに文字が気になって耳がおろそかになってしまう。

パッション

しゃべりを中心にプレゼンしたのは米国人だった。演台のマイクは使わずハンドマイクを握り、ステージの前まで踏み出し身振り手振りで熱弁をふるった。TED本にはPassionの重要性が繰り返されている。ポインターは使わず大スクリーンまで近づいていって指差した。うーんこれだ。躍動感がある。場を支配している。これをマネてみよう。

Q&A

プレゼンが終わると数人が壇上に座り、会場の聴衆とパネルディスカッションがある。これは緊張する。想定しない質問があるか?インドリッシュが聞き取れるか?案の定会場のから質問は聴き取れない。マイクの具合もあるのか?しかも質問が長い。聞きたいというよりしゃべりたいといった風。たださすがはネイティヴのプレゼンター。しっかり聴き取って回答していました。

さあマイターンだ。

ファシリテーターに呼ばれ壇上に上がる。ソファーに座り、前のスピーカーにプレゼンを聴く。気もそぞろ。ファシリテーターが私の紹介をしたのち立ち上がり演台へ。ハンドマイクも持った。PCの前には立たずに会場から全身が見える位置に立つ。ただPC画面もたまにみるのであまり離れずに。これが問題。会場右手から見ると演台のかげにかくれる位置となってしまった。
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右手はページ送り用のリモコン兼ポインター。左手にマイク。ただしポインターは大スクリーンには使えなかった。ページ送りもリモコンを見過ぎた。

あとはあっという間に終わってしまった。Passionが込められたかというとそこはイマイチ。内容はしっかり伝わったと思う。聴衆のうなずきが心強かった。終わりのサンキューが早口になってしまった。

さてパネルディスカッション。
プレゼンが終わったらノドがカラカラになり緊張がはじまった。いきなりファシリテーターから私に振られた。これは想定外。でも彼はアメリカ人なので聴き取れた。会場から私への質問は1つ。想定どおり長い。質問のポイントはどこなのだ?となりのインド人スピーカーに耳打ちして聞いてみた。彼、何が聞きたいの?シンプルに要約してくれたので乗り切れた。

壇上で記念品をもらい写真をとってステージを下りた。丸テーブルにもどると主催会社の社長が来てくれた。いいプレゼンだったよ。英語がとてもうまいね。どこで身につけたんだい?お世辞とはいえうれしいほめ言葉。後日Good command on English に対して聴衆が感心していたとフィードバックもらいました。

レビュー

後日動画を手に入れてレビュー。

妻に言われた。日本語よりしっかり声が出ているね。(家庭内比)ふだん低音でボソボソ話すので聴き取れないが、このプレゼンは高音でよいと。まあ見せたビデオは10秒くらいしかみてくれませんが。

高音低音という点からみるともっと低い声で喋った方が英語話者っぽかったかもしれない。以前読んだ英語発音の本には、別人格になるくらい低い声を出せと書いてあったのを妻に言われて思い出した。

中2息子にも指導された。彼はYoutube世代なのでTEDスピーチよくみてる。

「パパ、モニターを見過ぎだよ。覚えなきゃ」

「それにね、いきなり本題に入っちゃダメ。自分の昔のエピソードとかを最初に話すんだよ。それにねステージを歩きながらしゃべるといいよ」

将来TEDスピーチやるときまでに練習しとくよ。

ちょっとくやしいので息子に主催者の反応メールを見せた。

It gives me immense pleasure to share with you that not only your presentation was highly appreciated by the delegates but was also rated as one of the most informative presentation at the conference.

「レイティングトップだぞ」

「ぜんぜん意味わかんねえし」

以上





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by zhuangyuan | 2017-10-08 17:42 | 学習 | Comments(0)
2017年 08月 13日

真ん中ってどこにあるの?

「真ん中の子どもたち」温又柔著

ミックス言語ワールドで生きる留学生の葛藤を描く。言語好きにはたまらない物語です。

主人公のミーミーこと天原琴子は留学先で「てぃえんゆぇん」と呼ばれる。天原を普通語読みしてTianyuan。
アルファベットで書いてもローマ字読みとは異なり、中国語のピンインではティエン ユエンと読む。
この琴子は日本育ちの台湾人とのハーフであるゆえに自分のルーツと言葉の浮遊感に揺れている。そして揺れ続ける。
ピンインをあえて平仮名で書くところにすでにもどかしさを込められているのかな。

私は伊藤なので中国ではイートンyitengと呼ばれます。はじめ違和感を感じました。
オレにはイトウという苗字がある。音もセットで自分がある。
でもねよく考えたら毛沢東はモウタクトウだし、鄧小平はトウショウヘイって呼んでる。
中国語は漢字が表意文字として中心に鎮座してるので音は後からついてくる。

琴子の友人、龍舜哉は帰化日本人ですが屈託がない。
祖父が帰化するときに劉を日本語で同音というだけで龍に変えた。いさぎよい選択。
舜哉は自分をはっきりと日本人だといいきる。

その彼が言う。
「中国って大きい。これだけ大きければ、おれみたいな中国人がいてもおかしくないんちゃうん?」

まさにここが中国との日本の違い。中国はでかいんです。
私の好きな中国のことわざでこう言います。

林子大了什么鸟都有。
森はでかいんだからどんな鳥だっているんだ。

中国は言葉に対する許容範囲が広い。
普通語が幅をきかせる今日でも、地方出身者が訛りの強い言葉で卑屈になることなく大きな声で堂々と喋っています。
私のヘタクソな中国語だって受け入れられます。

ところが日本だと正しい日本語ってのが出てくる。それが一段上にあるという感じが常につきまとう。
先日読んだ本によると沖縄の訛り矯正のため、
教室で方言をしゃべった生徒には方言札という札を胸に下げさせたそうです。

中国も毛沢東主導のもと効率化のため言語統一が図られます。
ピンインが導入され、教育は普通語でなされ、アナウンサーは普通語で話します。
ほとんどのテレビ放送に普通語の字幕がつきます。
そんな状況からでしょうか、中国語がうまいことを褒めるとき、「とても標準的ですね」と言います。
「你的中文很标准」私もよく言われます。学校で習ったものですから。
でもなんか褒められた気がしない。生きた言葉じゃないって感じ。

琴子の先生である陳老師も正しい発音を厳しく指導します。
適切な指導を行う努力を惜しまない。でもこれは任務なのです。
文化からではなく、政治に基づいた任務。ここは老師は譲れない。

でも中国社会は外のものを受け入れる許容を持っていると思います。言語もしかり。
古代から異民族と混じりあって時の為政者に表面上は合わせながら自らの寄って立つところを失わずに生きてきた。
だから自分の言語ワールドを捨てないし卑下もしない。
中国人という一言で片付けられないし、線引きできない。中国には多民族が集まってる。
漢族が中心と言われますが、漢族の定義なんてあいまいです。
混じりあった末にそこに居ついた人々くらいなものです。
威張ってる北京人、上海人も同じ。数代前にそこにきただけ。
でもそこに根ざした言葉を喋ってる。

そこでは普通語と方言のミックス感が自然なんですよね。
なんの途切れもなくいつのまのにか土地の言葉が混じってくる。
これは台湾も同じ。ビジネスでは國語と呼ばれる共通語が話されますが本省人がいるといつのまのにか台湾語になってる。これは主人公琴子の家庭の言語空間と一緒です。線が引けない。言語カオス。

中国でも台湾でも時の政権と社会は必ずしも同一ではないんです。
私も短い間北京にいましたが一見すると画一化されたように見えますが、その実、自由な混沌があるんです。

華僑の国シンガポールなんかはさらに複雑です。
普通語、広東語、福建語、潮州語、海南語....ついでに英語。みんなごちゃまぜで話して通じ合ってる。
どれが正しいなんてのはない。これが日常なんです。
こんな世界にいるとあっちとこっちの間に線を引くことに意味がないしそもそも引けない。
あっけらかんと自分の言葉を喋ってる。そこでは国家なんてのは仕組みでしかない。

この状況って中華圏だけじゃない。アメリカだって同じ。
ロスでもヒューストンでも空港で聞こえてくるのはスペイン語です。
でもこちらと話すときは英語。下手くそでも自然です。
グロービッシュ。
世界のみんながこれを話してる。
日本人以外は恥ずかしがらずに。

これが日本においては、国家と歴史と民族、言語が地理条件と一致して統合されているように思えてしまう。
幻想に過ぎないのに。グローバル化の進行でこの幻想も揺らいできた。
そしてこれからますますあいまいになってゆく。多様性が増してゆく。

あいまいになるとこれまでのステレオタイプの価値観が通じなくなり不安になる人々がいる。
世界が動いて多様化しているのに隣近所の異質な存在にしか目が行かなくなり、
機能しなくなった単一幻想をますます偏狭にしてすがってゆく。
そこでは無根拠な排除が行われる。排除していることすら罪悪感をいだかなくなるかもしれない。

刊行記念講演で著書の温又柔さんはこうおっしゃっていた。
そんな世界に生きる子供たちが、異質であるゆえに狭間に追いやられることがあるならば、
その狭間こそが真ん中であると胸がはれるような物語を書いてゆくと。
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これからますます重要になってゆくでしょうね。

以上



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by zhuangyuan | 2017-08-13 21:10 | 言葉 | Comments(0)
2017年 07月 18日

ネット時代 中国語は世界語になった

「パリの昼下がりマルチリンガルのギャルソンのおかげで、私は、少しヴェトナム風にアレンジされたとてもおいしい広東料理にありつくことができました。中国語を身に付けておけば、(たとえフランス語やドイツ語やタヒチ語ができなくても)世界中の至るところでこのような口福に恵まれるチャンスが待ち受けている」P62


「中国語はじめの一歩」にある一説です。


パリのチャイナタウン(Porte de choisy)で華僑が営む広東料理店で食事をすると、街の外から来たであろう著者に店員は普通語で話しかけたという。その華僑二世である店員は広東語は家庭で覚え、普通語はコミュニティスクールで習ったという。パリでも中国語が話せる時代です。


私は32歳で中国語を始めましたが、学生時代の第2外国語はスペイン語でした。中国語は北京でしか通じないローカル言語だと思ってた。確かに今でも各地各地で方言が使われます。本書によると漢語方言は大きく10区にわけられるという。実際に以前友人に紹介してもらったテレビドラマDVDは主人公が四川訛りでさっぱり聞き取れませんでした。全部普通語字幕がついてます。


ところが昨今の普通語の普及ぶりは目を見張るものがあります。テレビと教育の浸透に加え今では世界第2の経済大国となった中国は史上初めて音声言語統一されたような。かつては、北京人にとって世にもおそろしいと言われた「広東人の話す普通語」も若い人たちなんかはすっかり洗練されました。香港人もしかり。今では香港映画も普通語バージョンが必ずあるしジャッキーチェンだって普通語喋ります。


海外に渡った華僑たちの大半は広東、福建あたりから出ていますが彼らも普通語習ってる。かつてはチャイナタウンごとにそれぞれの方言が話されてた。知人の親戚は台湾華僑でニューヨークに渡りましたが、チャイナタウンで福建ベースの台湾語が通じずに、チャイナタウンで広東語を覚えたという。


チャイナタウンのある外国にとっても中国の重要性が高まると同時に教育として中国語が導入される。この場合もちろん普通語です。すると華僑の子息も勉強します。


本書よるとアメリカでは1994年に普通語がフランス語、スペイン語とともに学校教育の第1外国語の選択肢に入ったという。P63


学生時代シドニーで小学生の日本語で話しかけられた。学校で習ってるって。でも今は中国語に押されてる。


華僑の子息が大陸で普通語を学ぶことも増えている。もう10年前ですが私が北京で語学コースに言った時、上級クラスの1/4が華僑の子息でした。アメリカ、オーストラリア、香港人も来てました。一番遠くはスイスの中華料理店の娘。インドネシアの華僑は暴動から逃げて来ていました。彼らは上達が速い。特に会話は。生活言葉だけは苦もなくできる。では方言とはいえ漢語世界ですからね。でも漢字ができないんだよね。時事問題なんかの漢語表現は全然ダメ。それらの漢字は和製漢語だから俺の方ができた。まあそれはともかく方言世界が中心だった世界中の漢語世界に、北京で学習した子息を通じて普通語が浸透してゆくのです。


アジア各国ではチャイナタウンに行くまでもなく経済は華僑が握っていますのでビジネスの世界ではたいてい普通語も通じます。普段はグループごとに広東語、福建語、潮州語なんかを話してますがみんな集まると普通語喋ります。つまり普通語が共通プロトコルになってる。もちろん漢字が古代からその役目を担って来たわけですが、そこに音声も加わり最強言語となった。


アヘン戦争に敗れて停滞した中国は、その原因として複雑すぎる漢字とそれによる識字率の低さをあげた。毛沢東は簡体字とピンインを導入した。しかしスマホでピンイン入力できる今、漢字の壁は越えた。しかもネットでつながるテキストの時代、表意文字である漢字のメッセージ力の強さと効率は驚異的。試しに140文字で比べてみてね。


ただし中国語の漢字には使われるその場の環境によって意味する範囲や時の感覚が異なって伝わることがある。その意味でテキストだけをネットに放つのは、受けとられ方を考えないとね。


まあ言いたいことはネットで世界の垣根が取れて中国語が世界語になったってこと。しかもですよ中国語ができれば4000年のアーカイブにアクセスできるんです。


以上



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by zhuangyuan | 2017-07-18 21:08 | 中国関連DVD、本 | Comments(1)
2017年 06月 25日

映画「メッセージ」がとどけるメタ的言語ワールド



映画「メッセージ」鑑賞


ある日、地球上の11ヶ所に宇宙船が現れる。


目的は不明。


アメリカでは来訪者の真意を探るべく言語学者ルイーズが選ばれた。

彼女は多数の言語を操る天才。


宇宙船に軍とともに赴き異生物たちの発する音や記号を理解しようとコミュケーションを図る。7本足の生命体(ペプタポッド)はそれぞれ名付けらることで個性を持つ。宇宙船空間は重力の方向が地球と異なり異生物はどうやら吐き出した墨の形状がいわゆる文字の働きをしているようだ。その文様をルイーズが解析し意思疎通が進み出す。


ところが中国では相互理解の前に先制攻撃が決定される。果たして全面戦争は避けられるのか?題名が示すように映画の主題はメッセージ。世界11箇所にメッセージが送られひとつひとつでは解が得られない。世界は協力できるのか?異生物の目的は?


言葉好きにはたまらない興味の尽きない内容でした。表意文字アルファベットをボードに書いて通じるのか?中国の表意文字、漢字はいかに?異生物の墨文字は正面から見た平面で捉えて良いのか?立体であれば見るものの位置で意味が変わるはず。回想として挿入されるルイーズと娘の意思疎通はいかに変化してきたか。


つい先日読んだ本を思い出しました。


「文芸翻訳入門」



その中に移民収容センターの話がありました。


移民たちの半生を作家が聞き出して物語を紡ぐ。

その文章には何パターンの翻訳行為があるのかを問う入試問題が出されたといいます。


正解は

①移民の話を作家が書く翻訳

②移民と作家の間に入る通訳による翻訳

③作家自身も外国出身で英語を外国語として話す。これも一種の翻訳行為。

④この物語を日本語にする翻訳

計4つ


どの局面においても誤訳が入る可能性があるのです。


一方、この映画メッセージはどのくらいの翻訳行為があるのか?


①宇宙人の言葉をルイーズが英語に翻訳

②それを日本語字幕にする翻訳

③原作小説から映画を作るという翻訳

④小説の作家は中国移民の息子ゆえに英語で書くことはすでに翻訳行為


字幕作成という行為は翻訳のさらに翻訳と言える。この映画の宇宙生命体の言語にはどうやら時制がないらしいのですが、それを字幕を通して読むと、意味の取れない部分が元の言葉にあるのか、字幕の限界にあるのか一度観ただけで判別出来ませんでした。


上にあげた本にはこうある。


「普段はなじみのない事柄など直訳では伝わらない要素は役者がそうさくして補わねばならない。

だから、字幕は翻訳と言うよりは脚色なのだと思う」P233


「映画は原作に対する一つの読み方を提示するにすぎない」P244


ちなみに原作はStory of your life(あなたの人生の物語)

それが映画になるとArrival(到着)に翻訳され

さらには邦題になると「メッセージ」になる。

主題が変わっちゃうほどの翻訳です。


原作の1つの解釈である映画も観客それぞれが自分のそれまでの体験の積み重ねを基にしてそれぞれが翻訳して消化する。


そしてその元のもとの原作はアメリカに渡った中国人の子孫が書いている。

そして映画では中国語が重要なキーになる。これは映画としてのオリジナルだというから面白い。


ともかく言語がテーマであり言語が地球さらには宇宙に与えるものはなんなのだ?


これは観てのお楽しみ。


言語の違いが分裂を生むのか?それとも?


以上





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by zhuangyuan | 2017-06-25 11:02 | 映画 | Comments(0)
2017年 06月 11日

まつろわぬ民の魂を胸に

「まつろわぬ民2017」風煉ダンス@高円寺・座



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出張予定が決まらずに前売券を買えなかったけど、当日券があると知り行ってみた。

こんな最高の舞台を危うく見逃すところでしたよ。私 、白崎映美さんの歌声を聴くとなぜだかこころが疼くのです。


ゴミ屋敷に暮らす老女スエ、開発を目論む女性政治家、解体業者、役所の職員、ワイドショー、

ゴミ山に登る老人と娘カップルが絡み合いナンセンス連発のドタバタが始まります。


人々に捨てられたモノモノモノ、人々にとってゴミでも屋敷の住人にとってはかけがえのないもの。

テレビ、冷蔵庫、電話、こたつ、アイロン、これらものたちがそれぞれ人格を持って、解体作業に対して立ち上がる。

実はこの屋敷は千年前の蝦夷軍団の根城だったのだ。ミカドの支配に従わないまつろわぬ民の末裔なのです。

というかまつろわぬ民そのもの。

千年の時を行ったり来たりする異空間が舞台にあらわれる。

画一化した経済至上主義という錦の御旗を掲げて、合理化という正義で異質なものを排除し、

古いものを捨て、裏側に溜まるものには目をつむる。

そんな体制に反旗をひるがえすまつろわぬ民たち。


ゴミの中には登山老女がかつてお気に入りだったお人形のレイコちゃんもいた。

このおばあちゃんは認知症の兆しあり。レイコちゃんには独眼竜の眼帯がはめられている。

おじさんがいたずらしてマジックで書き足したという。世界が半分見えない。というか見たくない半分を見ないのだ。

その見ていない半分はなんなのだ?

男性に従う古き良き女性像の中で耐えてきた女性自身か?

過去に捨ててきた偽りの自分か?

社会の歯車として押し殺してきた個性か?

安定のために封印した怒りか?

ともかく劇のあいだ中に刺激ある言葉や暗喩がこころにしまったはずの思いを刺激するのです。


蝦夷の一族にはミカドと戦うべく村を後にした若者がいた。彼の名はサンベ。

ゴミ屋敷を解体する若者がそのサンベだとスエがいいだした。息子サンベが帰ってきた。

そしてミカドと改めて戦うのだ。皆は帰ってきたサンベの信憑性を疑う。

でもスエがサンベだと言ったらサンベだと。まつろわぬ民たちもトップに盲従するというブラックユーモアが笑える。

サンベは神話の中だけで生きているファンタジーのはず。であるからこそ皆の魂のよりどころとして機能する。

実際のサンベの行く末は追求しないのが皆の暗黙の了解。

でもサンベが持っていたまつろわぬ魂は誰の胸にも消えずに残っているはず。


ゴミ山解体のクレーンが動き始める様子は見ていられないほど苦しいのです。

権力に自らを委ね力を背景に自ら鉄の塊を振り回す。勢いのままに。その勢いは止められない。

意志がなくなっても惰性は止められない。


私も社会の一員として組織に属しつつもも自らを捨てずに生きている自負はありますが、

白崎映美さんの歌声が響き出すとなぜだか涙が込み上げてくるのです。俺はまつろってるのか?

何かを抑え込んで片目で世界を見てるのかもしれないな。

あるいは、安逸を求めて身をゆだねたい気持ちがどこか奥底にあるのか?


舞台が終わってもしばらくざわざわが止まりませんでした。


ところで白崎映美って名前はエミシとだぶるなあ。




以上



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by zhuangyuan | 2017-06-11 22:57 | 文化、歴史 | Comments(0)
2017年 04月 29日

韓国はいつでも事大主義

韓国ソウル南大門前を歩いていると大きなデモに出くわした。日本でも大きく報じられているパク大統領退陣要求か?でもすでに最高裁の結論は出ているはず。じゃあ一体なんのデモ?警備に駆り出されているイケメン警官に聞いてみた。


「このデモは大統領サポーターのデモですよ」

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デモ隊は何か整然としていて統制がとれている。大きな声を上げるが怒りのトーンはない。たまにスピーカーから明るい音楽まで流れる。太極旗と並び大きな星条旗を掲げている。


市庁舎広場にはテントが張られ大きな布にスローガンが書かれている。大統領弾劾は北朝鮮の陰謀だとかなんとか。


日本では朴槿恵大統領弾劾要求デモしか報じられませんが、考えてみれば当たり前、選挙でえらばれたわけですから支持母体があるわけです。彼も次の大統領を争わなきゃいけない。


支持者は年配者が多く漢江の奇跡前の貧乏時代を知っているそうで親米政策が功を奏したと考えてると。


ふと気づくと通りのはるか向こうにもデモ隊がいる。光化門の方から世宗大路を南下してくる。反大統領デモです。こちらは若者中心。いわゆるキャンドルデモ。


若者たちは富の偏りと就職もできない自分たち世代を憂いている。


通りの北と南で対峙する。

怒りが溢れ出していてもたってもいられず街に繰り出したというより、動員され組織だったデモと感じた。運動会の騎馬戦で戦いの位置につくような感覚。緊迫感ないね。


不思議に思ったのは北と南の配置。ソウルは風水の影響を色濃く受けています。北の山を背に王宮があり、今は景福宮があり光化門から南に向かい世宗路が通る。王様は北から南に向かうのです。非常に良い気の流れがあると言います。ちなみにに日本時代はこの流れを断ち切るように朝鮮総督府ビルがドカンと建てられました。今は撤去されましたけどね。



このデモをみると王が睥睨するはずの北から来るのが反体制派キャンドルデモなんです。南から来るのが大統領側です。違和感あり。野党が勝つのが決まってるからかな。


まあその王宮だって北京の紫禁城にいる皇帝が上であるから現代でいうと北京に支持されている北朝鮮、さらにはそれに先導されているというところの左派が北からってのはありなのか?


妄想はともかく韓国の政治を見ると外国勢力の影響が非常に強いのがみていてつらい。大国に囲まれた半島にあるという不幸ゆえ歴史的に隣国に翻弄されてきた。中国、日本、ロシア、アメリカ。外国の干渉のたびに国内が党派に分かれて対立する。いわゆる事大主義におちいる。権力基盤が変わると以前愛国者であったはずのものが売国奴に変わり、抑圧されていたものが不屈の志士となる。西大門博物館は日本時代の刑務所ですがたくさんの独立の志士がたたえられていました。


最近韓国映画を立て続けに観ました。「お嬢さん」「アシュラ」「哭声 コクソン」どれもが戦う相手お互いがどこか別の大きな勢力に操られてる。当事者は騙したり騙されたりしつつもどちらが正義か判別がつかないうちに消耗してゆく。「コクソン」では山あいの村で奇病が流行り罹患したものが家族虐殺を行う。これは最近村に入った謎の日本人が呪いをかけてるにちがいない。朝鮮伝統の呪術師に退治してもらおう。いやカトリック神父に原因見つけてもらおう。いやもしかしてあの美女が元凶?当事者たちは外に解決を頼み、それを鵜呑みにしてさらに戦い続ける。どんだけ血みどろで死ぬんだよ。韓国の歴史というか運命を物語で暗喩的に示してるんでしょうね。


事大主義の最大の対象はなんといっても中国ですが、この影響から逃れるために漢字をなくしちゃった。これはスーパー不便。表音文字のハングルがありますが漢字語とのセットで韓国語が成り立っているわけで70%を占めるという漢字語もハングルであらわすってのは土台無理がある。漢字なし政策のせいで若者は自分の名前の意味もわからない人が増えているという。基本漢字ですからね。また表意文字である漢字があらわす微妙な意味の違いが音だけで表現されて豊かな感情表現ができなくなってると年配の韓国人の友人は言っています。そもそもハングルは歴史的にはそう重んじられていなかった。政府の文書は漢文だった。ハングル漢字混じり文を教育に取り入れたのは日本時代だそうです。ハングルは世宗大王が14世紀に作りました。その功績で歴史上の英雄といえば世宗なのです。その証拠に光化門前の通りには王宮を背に大きな銅像があります。その前にはもう一人の李舜臣将軍の銅像もあります。秀吉の日本軍を撃退した英雄です。ところが世宗の後の時代にも関わらず碑銘には「忠武公李舜臣将軍像」としっかり漢字で書かれているのです。

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もちろん世宗のほうは「세종대왕」とハングルで書かれてます。


これだって漢字語ですけどね。韓日辞書を検索して漢字語だとがっかりします。覚えようというモチベーションがわかない。これがいつになっても韓国語ができるようにならない理由の一つです。한자어가 진짜 많아요。


以上




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by zhuangyuan | 2017-04-29 08:27 | 文化、歴史 | Comments(2)
2017年 02月 01日

映画「十年」香港の核心的価値とは?ヒント:カネじゃない

香港映画「十年」鑑賞@多摩映画祭(2016.11.27)。
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FBで前日に上映会を知り駆けつける。会場はぎっしり。こうした地味なテーマに惹きつけられる同志がこれだけいるとはうれしくなる。

中国大陸の影響が強まるなか香港の十年後の姿を描いた問題作。アクション映画でもなくスター俳優が出ているわけではない本作が公開されると話題が話題を呼び大ヒット。大手映画館にはかからなかったにもかかわらず学校の体育館で上映会をやるなどして広がっていったという。この映画を観ることが現体制批判の意思表示として1つのファッションとなったと。その結果、超話題作スターウォーズを凌駕するヒットになったそうです。

5本のオムニバス形式である本作は十年後の諸相が異なる角度と様々なスタイルで映像化されている。

テーマは下記
国家安全条例制定
歴史の破壊と保存
消えゆく広東語
独立運動と焼身自殺
言葉狩り

それぞれこんな題名がついています。《浮瓜》《冬蟬》《方言》《自焚者》《本地蛋》

国家安全条例立法化をめぐる権力者の陰謀をヒットマンの葛藤から描く。権力におもねる統治者が大陸にいると思しき上層部からの指示で条例を通すための事件をでっちあげる。狙撃役に選ばれた2人はためらいつつもわずかな金欲しさに自分が実行したいと争う。そしてその結果は?

大陸と香港、香港政府と庶民、金持ちと貧乏人、権力と裏組織、いくつものメタ構造がこの狙撃をめぐる人間関係の行く末で預言されてるようで恐ろしい。この条例は胡錦濤が就任直後で国内で政争ネタになるのを恐れて断念した経緯があるそうだ。今中国は当時からすると存在感がぐっと増しており、さらに10年後なら言わずもがな。危機をあおる狙撃茶番など要らなくなるほど香港市民の洗脳が進んでいるかも。であるからこそ香港人民が今こそ政治に関心を持たなくてはならない。これこそが本作の狙いでしょう。もちろんわれわれも日本人も政治を意識しないとね。

人権に関心のない大陸政府に対抗するため独立を願う10年後の若者たちがすがったのがイギリス政府。国際世論の関心を引くためイギリスに訴える方法は強烈すぎる。英国領事館前の焼身自殺。

このストーリーの中で意識されてるのは香港の多様性。自由と民主を求める若者たちの中の重要な役でインド系の女子学生が出てくる。香港といえば中国人と英国人の国。なぜインド人が?香港のイメージは中華系の金融センターでありカネによってシンボライズされている。自由なカネを回すには安定したルールが必要。自由なシステムの元では人種は区別されない。そこではアイデンティティは血ではなく、民主的に決められた法治主義のもとの自由。英国統治時代に香港に来たインド系も多く移民してきており、彼らも代かわりして香港の自由のために戦っている。単に中国からの政治的独立だけでなく普遍の価値を求めた戦いであることをインド系を登場させることで象徴させているのではないか?

正直、映画を観るまでは、報道で若者たちの抗議デモを見ていてもピンと来なかった。民主とか自由とか言っても結局は香港人ってカネ第一じゃないの?土地への帰属心もうすく中国返還が決まったらどんどん海外に脱出したよね。バンクーバーなんて香港人増えすぎてホンクーバーなっちゃった。そもそも彼らに香港人としてのアイデンティティはあるのかと疑問を抱いていた。そこで上映後トークに登場したジャーナリストの福島香織さんに質問してみた。

「香港人のアイデンティティって何ですか?」

Rule of law 法による統治が香港の核心的価値であると香港の識者は主張していると。統治者が都合よく法をふりかざすRule by lawと異なる厳かな法による統治。為政者も法に支配される。「香港を知るための60章」でもイギリスが残した民主主義について触れている。返還を前にイギリスは優位に交渉するためとはいえ香港に高度な自治と社会福祉を充実させたと言う。返還にあたっては「五十年不変」を鄧小平に認めさせた。その高度な自治が骨抜きにされつつある今日、雨傘運動につながってくるのだと言います。

5つの物語で私が好きなのは「方言」。コミカルタッチな作品です。普通語がメジャーになっている十年後の世界では広東語は方言扱いされ、タクシー運転士も普通語をマスターすることが義務付けられてる。普通語試験に合格しないと「非普」のステッカーを貼られ空港などでは営業ができない。空港を利用する人の中にも当然広東語しか話せないひともいるのに広東語では営業できない。早く合格した香港人ドライバーからも蔑まれる。息子は学校で普通語マスターしてるのに親父はできない。香港の地名は広東語か英語だったのに普通語で発音しなきゃならない。サッカー選手のベッカムDavid Beckhamなんてのも香港では英語で呼ぶわけですが普通語では大卫·贝克汉姆と呼ぶ。Dawei Beikehanmu、ダーウェイ ベイコーハンムー。かなり笑えるのですがだんだん悲しくなってくる。言葉統制は統治の基本。日本も韓国や台湾でやりました。

香港では言葉がちょっと複雑。英語が入ってる。グローバルでは英語が主流ですがそれも排除すると言うのが十年後。もちろん想像の世界でのことですが。しかも香港は復帰直後までは中国世界の経済的繁栄の象徴であり、大陸中国の目標であり憧れだった。そのシンボルは広東語だった。スターがしゃべる広東語がかっこよかった。その排除にはかつての劣等感の裏返しがあるんでしょうね。

そのコンプレックス感は「本地蛋」の物語にも出てくる。「地元の卵」って題名です。十年後には中国大陸産卵を食べることが義務付けられ最後の地元養鶏場が廃業する。「本地」ってのは地元くらいの意味ですが香港ではすこしセンシティブです。遅れた大陸中国ではない文明化された我らが香港との響きがある。この「本地」という言葉も十年後には排除の対象となっている。そんな情勢下で衛生と滋養を満たした地元の卵を作ってきた最後の養鶏場経営者が追い込まれて行く。地元卵を売る店も取り締まられる。街を偵察して密告して糾弾するのは少年たち。文革の紅衛兵を模した少年軍。洗脳、密告、排除。醜悪です。でもありえるよね。すこし前にあったんだから。物語の最後には養鶏場経営者の息子が父を支持して立ち上がり希望を残して終わるのですが、いかにもありそうでこわいお話しでした。

私、二年前に久しぶりに香港旅行に家族で行きました。普通語はずいぶん通じるようになってました。ただレストランなどで普通語をしゃべると店員の態度がめちゃめちゃわるくなるのが困りものでした。その理由を友人に聞きました。香港には大陸の旅行者が大挙して押しかけ金に任せてやりたいホーダイ。大陸観光客に経済的にはたよりつつも異質な者として嫌っているのだそうです。香港人は彼らを揶揄してイナゴの大群と呼ぶ。700万人口に対して大陸からの訪問者4700万人(2014年)であると前掲書にある。香港は急拡大する中国と国際社会の摩擦の先端となっている。それを見るだけでも香港に行く価値がある。映画を観た後に訪問するとさらに奥行きが見えるようになる気がする。香港では若者が戦っている。

以上


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by zhuangyuan | 2017-02-01 19:53 | 言葉 | Comments(0)
2017年 01月 22日

見えない世界をどう見せる?「推拿」

中国映画「推拿 ブラインドマッサージ」鑑賞。

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地味なテーマ、目をそむけてきたテーマを描いてこれだけ目が離せない物語にするとは恐れ入ります。

推拿、手の感触から広がりゆく奥深い世界が感じられる。邦題でブラインドがつくとそこで世界が遮断されているような閉塞感をイメージしてしまう。

盲人按摩が繁盛していた時代の物語だと言う。
私もかなり前に何度か施術を受けたことがあります。ロウソクくらいのともしびだけの暗い部屋に通されてうつ伏せで身を委ねる。暗がりの中でじっと受け身で過ごす不安感は忘れません。あちらが万能、こちらがハンディを負いなすすべがない感覚。当時は中国語もできませんので無力です。

映画では経営者も含めてマッサージ師が全て盲人である施術院での人間模様を描く。

ナレーター曰く、盲人は健常者を一級上であり神に近い存在だと感じるのだという。そうなのかもしれない。でもそれはそう思わされているだけなのではないか。ろうの世界の歴史と現状を描いた「手話を生きる」を読むと盲人のこの考えは、洗脳された結果にすぎないのではと思えてくる。

健常者が作り上げた聞こえる者が中心にいる世界に、聾が努力して合わせるべきだと教えられ、
かつては手話の使用を否定された。本来芳醇な精神世界が手話によるコミュケーションで培うことができるにもかかわらず、習得困難な口話教育により幼児レベルの思想に押し込まれたという。盲の世界にも光ではない何かが照らす深淵があるのではないか。

按摩院で働く盲人たちは推拿という特殊技能を持ちながらも患者を含めた圧倒的多数派である健常者が作る世界の価値観の影響を免れない。常にポジティブな院長はごく幼いころに視力を失いずっと盲の世界で育ったため盲であることにコンプレックス感じたことがないという。そんな彼ですらも健常者の価値観の影響を受ける。目の見える患者たちが口々に褒め讃える美貌の持つ盲人按摩師に恋をする。見える世界の美に触れたことがないにもかかわらず。未知のものに対する憧憬。見えることはない、知ることがないと知りつつも。

かつて健常者であり徐々に視力を失いつつあるもう一人の女性按摩師は盲人である恋人にいう。自分は按摩院で2番目の美女であると。そしてそんな彼女を持つことが誇らしいかと盲人の彼に問う。美を目で捉えられない彼氏に。見えていた世界の論理にすがる彼女。その院には視力の度合いや盲になった時期の異なる按摩師が同居している。はじめから見えない盲人は自らの世界を楽しんでいるように思える。光のない世界がホームとして。見える世界と見えない世界の境界が人間模様も中で交差し、時に錯綜する。価値観がくずれる、あやふやになる。

原作が読みたい。映像は見える世界を見せる。文字では見えない様子をどう描くのか?表意文字である漢字の国で音だけの世界をどう表すのか?是非原書をのぞいてみたい。

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by zhuangyuan | 2017-01-22 21:47 | 映画 | Comments(0)