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2006年 06月 26日

第二次簡体字化計画

銀座に台湾が!という記事の中で繁体字について触れました。
記事のコメントの中で、
我がブログの一二を争う中国通の老同学である、かめ様、dashiさまが第二次簡体字化計画というものが存在したとのお話をしていただきました。

興味があったので中国サイトで検索してみました。
よくまとまったサイトを見つけましたのでご興味のある方はご覧下さい。
不成功的“二简字”

こちらには当時公布された簡体字化草案の一覧表が載っていますので
かめ様、dashiさまも若かりし学習の日々に戻ってご覧下さい。

確かにご紹介のとおり、 雪→ヨ、街→〒、私→ム というようなやりすぎのものもあります。
これならいっそのこと全部カタカナにしてまえって感じです。

dashiさまのおっしゃるがごとく表意文字の特質を無くすような試みです。
韓国語やベトナム語はもともと漢字圏であり、もとは漢字を使っていましたが
中国からの文化的独立を意図して、韓国は表音文字ハングルを開発し、ベトナムはアルファベットを用いました。

中国も最終的には漢字を廃止してpinyin化しようとしたこともあるとのことですが
そうなっていたら多くの漢語表現が消滅したことでしょう。

ともかく第二次簡体字化も廃案に追い込まれ、pinyin化も夢想に終わったのですが
この第二次簡体字化は影響が大きかったらしいのです。

なぜなら10年近くも使用することが推奨されたからです。
1977年12月に発表され1986年まで使用されたのです。

人民日報は発表翌日から使用を開始して、学校教育などでも使用されたとのこと。

少し記事を引用します。
由于曾经在社会上“二简字”被使用了一段时间,而且简单易写,废止后的“二简字”有时会出现在非公开的需要快速书写的文本如笔记、病历等,在公共场所也影响着现在的社会生活,市场、商场甚至路牌等重要场所都有出现二简字。比如:市场中“鸡蛋”经常被写作“鸡旦”,公共场所“停车”被写作“仃车”。

かつて社会において「第二次簡体字」が一定期間使用されており、
また簡単に書くことが出来るため、廃止後も「第二次簡体字」は時々、
ノートや病歴など速記する必要がある場合に非公開に出現する。
公共の場においても現代生活、市場、デパートまたは標識などの
重要な場所に影響を及ぼし第二次簡体字が出現している。
たとえば市場では“鸡蛋”(たまご)を“鸡旦”と書き,公共の場で“停车”(停車)を“仃车”
とよく書かれている。


10年も使ってからダメだといわれても遅いですよね。
でもそのころは現代にデジタル社会が出現しみんな手書きで文章を書かずに
ワープロを用いることなんか思いもよらなかったでしょう。

おかげで私でも繁体字かけますよ。PC上では。
ここまで進んだからにはもう二度とこの計画は持ち上がらないでしょう。

ところで繁体字で思い出しましたが
私の名前も簡体字であることを発見しショックです。
私の下の名前は 「岳」 (ガク)といいます。
意味は高い山のことです。(例:八ヶ岳)
昔は「嶽」 と書いたのです。富嶽百景といいますよね。

以前からこの「岳」という字は
なんで岳父(妻の父親の意)とかいう言葉に使うのだろうと思ってましたが
ちがう言葉で字だけ拝借したんですね、「山」の意味のほうは。

なんか略字だと軽く扱われたような気がします。

最後に余談ですが
世の中の鉄鋼会社のホームページを見て、会社名の「鉄」の字をご覧下さい。
「鐵」 となっていますでしょう。

なぜでしょう?

「鉄」 は「金を失う」と書くので営利企業として縁起がわるいので
旧字体を使うのです。へえー、へえー。

これも簡体字の失敗例ですね。日本版ですけど。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-26 22:38 | 文化、歴史 | Comments(7)
2006年 06月 11日

宦官英雄 鄭和

宦官ブログとしての第一歩は
偉大なる英雄、鄭和からはじめましょう。
明の時代に大旅団を率いて7回も大航海を決行した英雄です。
*宦官を知らないかたは宦官物語参照してください。

鄭和はまたの名を三保太監といいます。この太監というのは宦官の通称です。
ただ自ら進んでなったわけではありません。
明の全国統一の過程に当時雲南にいた12歳の色目人鄭和は美少年だったため
戦利品としてとられ去勢され朝廷に送られます。

そこで仕えたのが後の永楽帝、燕王朱棣。
これがラッキーでした永楽帝は洪武帝が宦官の登用を禁じたのに反して
どんどん優秀な宦官を登用したそうです。
そこで鄭和は宦官トップにのぼりつめたんです。

そこで永楽帝は大船団を率いて大航海をすることを計画します。
なんのために?
諸説ありますが有力なのは
《明史·郑和传》中记曰:“成祖疑惠帝亡海外,欲觅踪迹,且欲耀兵异域,示中国富强。”

「明史、鄭和伝」の中に記されているのは「成祖(永楽帝)は恵帝(建文帝)が海外逃亡したことを
疑い、捜索したいと考え、且つ軍隊の威勢を異国に示し、中国の力を誇示しようとした。


永楽帝は3代目皇帝ですが
甥である2代目皇帝建文帝を倒して政権をとります。
でも彼がいなくなっちゃった。彼を探し出すために大船団を派遣した。

その船団の団長に抜擢されたのが鄭和。
なぜか?
国際性を持ち合わせた大人物だったから。

陳舜臣の中国の歴史(平凡社 全15巻)の第11巻によると
鄭和は色目人。西域に住む人たちのことでイランかトルコ人のような感じでしょう。
しかも父親はイスラム教徒でメッカ巡礼も経験しており、
子供のときからこの冒険譚を聞かされて育ったんですって。
またペルシャ語も話せたし、コーラン読むからアラビア語も出来る。
中国にいますから四書五経も読みこなしたと言いますからすごいです。

しかも美男子で体もデカイ。でもチ〇ポはない。
こんな国際感覚豊かな知識人は見つけようとしたってなかなかいないでしょう。
なるべくしてなったって感じでしょう。

そこで7回の大航海に出かけるのですが
彼の人柄のおかげで大きな戦争もなく、友好的な交流ができたということです。

でも実際は他国にしてみれば戦いたくてもとても戦える相手ではない。
馬鹿でかい船と大多数の船団と兵士を率いていったんです。

本によっていろんな数が載ってますが
208隻の船と乗組員37800人。(62隻,27800人との説もあり)
いずれにせよすごい数字。

船のデカさ度肝を抜きます。
最大的长44丈4尺,宽18丈,是當時世界上最大的海船,折合現今長度為151.18米,寬61.6米。船有四层,船上9桅可掛12張帆,錨重有幾千斤,要動用二百人才能啟航,一艘船可容納有千人。

最大長さ44.4丈、幅18丈、で投じの世界最大で今の長さに換算すると
151.18m、幅61.6m。船は4層にわかれ9つのマストに12の帆がかかり、
錨は数千斤で、200人かけてやっと出航でき、一艘あたり千人収容できる。


重さは8000トン級だったそうです。その93年後のバスコダガマの航海時の舟は120トン
だったそうですからいかに巨大かわかります。

こんな船団が突然やってきたら
「ごめんなさい。何でも出しますから許してください。」ってなっちゃいますよね。

日本なんかは幕末に黒船4隻で震え上がってしまうんですから。
ちなみに黒船の最大長さは78mです。ちっちゃいちっちゃい。
全部に合計1000人くらいのってたらしい。幕末の黒船

これが来ただけで
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
となっちゃうわけですから。

で鄭和は今の国名でいうと
ベトナム、タイ、インドネシア、スリランカ、インド、イエメン、サウジアラビア
ソマリア、ケニアなどに足跡を残すのです。なんか興奮してきますね。このスケール。航海図

でも鄭和も友好的な態度をとおしたらしく
スリランカで発見された石碑には三ヶ国語でこんなことがかかれていたそうです。
これも陳舜臣さんの本に載ってました。
私は中国語のサイトから引用しましょう。

这块石碑引人瞩目之处,在于碑文分别用中文、泰米尔文、波斯文三种文字写成。中文的碑文说的是,郑和等受明代皇帝派遣,下西洋时来到斯里兰卡巡礼圣迹,布施香礼,以竖碑记之的情况,
(中略)
泰米尔文的碑文表示的是对南印度泰米尔人信奉的婆罗门教保护神毗瑟奴的敬献;波斯文的碑文则表示对伊斯兰教信奉的真主给予敬仰之情

この石碑が注目されるのは漢語とタミル語、ペルシャ語の三種の文字で碑文が書かれていることです。
漢語で書かれているのは、鄭和が明の皇帝により派遣され、西洋に出てスリランカに着き
聖跡を巡礼し、お布施して碑を建立した様子が書かれている。
タミル語の部分は南インドのタミル人が信奉するポロメンの守護神ピサヌへの献身を記し、
ペルシャ語はイスラム教のアラーへの敬愛の念を記してある。


この宗教への寛容さに鄭和の懐の深さを感じます。
異民族が来て石碑建てて示威的態度に出ると思いきや地元の神に祈る碑をたてる。
粋な人です。

このサイトでは次のように続いていきます。

这块石碑是郑和以及当时明朝皇帝平等宽容精神的体现和象征,同时也表明中国当时具有极为宽广的胸怀和世界性的眼光。 

この石碑は鄭和と当時の明朝皇帝の平等寛容精神の体現と象徴であり
同時に中国の当時の広い気持ちと世界性を持った見識を表しています。


なんだか政治臭くなってきました。

郑和之后不久,葡萄牙人、荷兰人、英国人相继来到了斯里兰卡,与郑和的平等互利、礼尚往来完全不同的是,这些殖民者不仅对斯里兰卡丰富的物产进行血腥掠夺,而且,逼迫斯里兰卡人民改信天主教、基督教,激起了斯里兰卡人民的仇恨与反抗。 

鄭和のあとまもなく、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が相次いでスリランカに来ますが鄭和の平等と相互利益の精神と礼儀とは完全に異なるのは,これら植民地主義者はスリランカの
豊富な物産に対して血眼になって略奪するだけでなく、
スリランカの人民にカトリックやプロテスタントに改信をせまり、人民の恨みと反抗を買った。
原文はこちら

もういいよ。わかったわかったって感じです。

そして裏読みすると
現在の中国の海外進出は純粋に友好と相互利益を求めたもので
覇権主義では絶対ないですよ。皆さんご心配なく。とこういいたいのでしょう。

政治臭いのは嫌いですからやめましょう。

ともかく
この鄭和さんの雄大な構想、偉大な業績と大きな心は尊敬に値します。
男の中の男ですね。

あ!男じゃなかった。宦官ですから。

でも男以上に男っぽい。憧れます。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-11 14:30 | 文化、歴史 | Comments(7)
2006年 05月 27日

「西太后」と現代中国

西太后―大清帝国最後の光芒
加藤 徹 / 中央公論新社
読了。

先日ご紹介した「漢文力」の著者、加藤徹氏の近著です。
中国の本って結構見かたに偏りがありがちで褒め称えたり、バッシングしたりいろいろですが
この方の本はバランスがとれてて読んでて気持ちがいい。
いろんなエピソードや風説も交えて読んでてあきさせません。
さらに学者さんにありがちな、まどろっこしさがなく、
ざっくばらんに話してくれるような感覚があります。

西太后といえば現代中国においては
近代中国100年の屈辱の歴史を作った諸悪の根源で評価は最悪です。
まあ彼女自身がどんな人物だったかはともかく
なぜ1人の女性が48年もの長いあいだ、衰退しつつあったとはいえ
まだ超大国であった大清帝国随一の権力者足りえたのか?
やはり歴史的に皇帝が君臨した中国は皇帝がカリスマ足り得ない時にも
カリスマを必要としてそれにたまたま選ばれたのが西太后だったんでしょう。

だって最初に権力を握ったとされるのが27歳ですって。
夫の咸豊帝が死んで実子の同治帝が即位したときです。
27歳っていったら数え年でしょうから、
この前千葉の選挙で勝った民主党のキャバクラ議員と一緒ですよ。
いくらなんでも自分の力では権力とれないでしょ。
周りで利用した奴らがたくさんいたはずです。

それにしても西太后、後宮に入ったのも選秀女というオーディションあがりなんです。
満州族のなかから美女、才女が集められて皇帝のお后探しです。
まさにシンデレラストーリー。当時18歳。
ミスコンで一位になったみたいなものです。
でも厳密には第4位当選。子供を産んで2位まで上昇。皇后はただ1人です。(東太后)
(ちなみに中国では西より東の方が上です。東の横綱が正横綱であるのと同じ論理です。)

27歳で権力を握ってから48年間ずっと大清帝国の中心でありつづけるのです。
今みたいにネットで情報が得られるわけでもないのですから
いったいどうやって統治したんでしょう。

まあ彼女の能力がどうあれ彼女がトップだった時期はほんとに激動の時代でした。
著者の話で面白いのはこの時期の大きな出来事は現代中国に投射されているんですって。
曰く西太后時代は現代中国のパイロットプラント。

洋務運動は今の経済発展、義和団の乱は文化大革命、変法新政は改革開放の
パイロットプラントだと。

特に洋務運動についての記述は面白かった。
阿片戦争に負けたあと1860年代から西洋文明を取り入れ急速に発展します。
そのスピードは明治維新をしのぐほどだったと。
キャッチフレーズは和魂洋才ならぬ中体西用。
“中学为体,西学为用”,希望利用先进的技术维护封建统治,改革不触动封建制度,被认为是失败的根本原因。(中文wikipedia)

「中国の伝統的な学術を基礎として西洋の学問を用いる」つまり先進技術を利用して封建体制を
維持し、封建制度の改革には手を触れない。このことが失敗の原因とみなされている。

権力維持のために西洋技術を取り入れたのです。明治の日本は旧幕府は倒れたjoあとで
新政府はなんのためらいもなく西洋技術を受け入れたが清国はそうではなかった。
日清戦争の時の清国海軍はセーラー服に辮髪だったんですって。
悪趣味な三つ編みお下げの女子高校生に扮したオカマチャンのようです。

この封建制度のところを社会主義と入れ替えるとなんか現代と符合します。
社会主義市場経済。
社会主義を基礎として市場経済を推し進める。

この洋務運動は約30年で終わりました。
いまの改革開放は1978に始まりました。もうすぐ30年。
北京五輪の後かな?

洋務運動の終わりは日清戦争でした。
こんどは米中かな?

いやいやこんな不謹慎なことを言ってはいけません。

ともかくこの本は面白かった。

以上
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by zhuangyuan | 2006-05-27 00:26 | 中国関連DVD、本 | Comments(6)
2006年 05月 14日

詩人 毛沢東

岩波文庫「中国名詩選」をめくっていましたら最後の最後に毛沢東の詞がありました。
詩じゃなくて詞です。日本語だと同じ「シ」という音なので後者を「ツー」といいます。

以前北京で語学教師に毛沢東は詞の天才だという話を聞いたことがあり
気になっていました。
詞は詩と違って全ての句が同数ではなくいろんなパターンがあるそうです。
韻の踏み方も複雑な決まりがあってとても難しいそうです。

その本に載っていたものはとてもわかりやすく面白いのでご紹介します。
一九三六年二月に作られたものです。
沁园春《雪》

北国风光,
千里冰封,
万里雪飘。
望长城内外,
惟馀莽莽;
大河上下,
顿失滔滔。
山舞银蛇,
原驰蜡象,
欲与天公试比高。
须晴日,
看红妆素裹,
分外妖娆。


北国の風光は千里までく氷に閉ざされ
万里に雪が舞い
長城の内外を眺めれば
果てしなく広がっており
大河は全て
滔滔とした流れを失い
山には銀の蛇が舞うようであり
野原には蝋燭の象が駆けるようであり
天と高さを競っているようだ
晴れた日を待ち
紅く染められ白に包まれた様を見れば
あまりにも艶かしい。

江山如此多娇,
引无数英雄竟折腰。
惜秦皇汉武,
略输文采;
唐宗宋祖,
稍逊风骚。
一代天骄,
成吉思汉,
只识弯弓射大雕。
俱往矣,
数风流人物,
还看今朝。


国家の山河がかくも美しく
無数の英雄たちがその前に腰をかがめてきた
惜しいかな秦始皇帝や漢武帝は文才がなく
唐李世民や宋趙匡胤はいささか風流でない
一代の天の驕子チンギスハンは
ただ弓を引き絞って大鷲を射ることしか知らない
皆過去のことである
風流な人物を数えるとするなら
今の世を見よ


詩的センスのない私でも非常にわかりやすい。
広大な自然を躍動感もって描き、しかも悠久な歴史の変遷まで表現してしまう。
素晴らしいですね。

しかも1936ですからまだ長征の最中のことです。
今でこそ長征というと勇ましい響きですが
国民党軍から逃げ回ってただけです。
1949の中華人民共和国の成立まで10年以上前の時代です。
そんな時期に4000年の歴史の偉大なる英雄皇帝を卑下し
己と比べてしまうこの根性がすごい。
今の世を見よ!って「俺を見ろ!」ってことですよね。
完全に天下を狙ってます。というかもう天下が自分のものだと思ってる。

今日本では時期首相候補が何人かいますが
彼らの目標は吉田茂だったり岸伸介だったり福田赳夫だったり
あまりに卑近な目標でスケールが小さい。
誰か天智天皇とか後醍醐天皇が目標だとかいう奴はいないのか?
天皇がまずかったら藤原道長とか源頼朝とか。

毛沢東はこの長征の間、中国歴史を徹底研究してバージョンアップしたとのこと。
Mao 2.0って感じかな。
詩や詞も相当読んだんでしょう。

第二次大戦後、Mao 2.0が共産党トップとして蒋介石と和平交渉を行ったころ
この詞が世の中にも知られるようになったそうです。こちらを参照

そこで毛沢東の詞の才能に嫉妬した蒋介石は国民党随一の文人に
毛沢東の詞の評価を聞きました。それに答えて曰く、
“气度不凡,真有气吞山河如虎之感,是当今诗词中难得的精品啊!”
(非凡な風格があり、正に山河を呑みこむこと虎の如し、当代の詩詞では得がたい絶品です!)
と素直に答えました。

蒋介石は更に嫉妬心を深くしていまいました。

そこで蒋介石は屁理屈を考え、盛んに宣伝したそうです。
他的词有帝王思想,他想复古,想效法唐宗宋祖,称王称霸。
(彼の詞は帝王思想がある、彼は王制復古を願い、
唐宗宋祖を習い、王と名乗り覇を唱えようとしている。)

当時蒋介石は民衆からは相手にされず、結局毛沢東が勝ちました。

でも今から振り返ると
毛沢東の覇権主義を鋭く見抜いていたとも思えます。

以上
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by zhuangyuan | 2006-05-14 15:53 | 文化、歴史 | Comments(11)
2006年 05月 13日

「シブミ」 上海193?年

シブミ〈上・下〉
トレヴェニアン Trevanian 菊池 光 / 早川書房
読了。

ミュンヘン・オリンピックのイスラエル選手殺害に報復するグループとその報復を阻止しようとする
CIAと石油利権を代表するマザーカンパニー。
そして生き残ったイスラエルテロリストが助けを求める主人公の謎の暗殺者ニコライ。
彼らが複雑に絡み合う冒険小説です。

じゃあなんでここで紹介するわけ?って声が聞こえそうですが
この暗殺者ニコライはロシア語、ドイツ語、英語、フランス語、中国語、日本語、バスク語などを
操れる国籍不詳者なんですが心は日本人なんです。なんかゴルゴを思い出します。
そして、その日本との出会いは戦時中の上海なのです。
彼が少年時代に当時上海を占領していた日本陸軍の将軍と一緒に暮らすことで
日本に感化されてゆくのです。ここで中国が出てくるわけです。

内容はさておき、なぜこの本を手に取ったのか?

こうした冒険物は当たり外れが多いので自分から何も知らずに買うことは
めったにありません。

この「シブミ」(渋み)というわけのわからない題名は
なんか西洋人が日本の伝統をデフォルメして勘違いしたゲテモノ小説チックな響きがあります。
フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリなんてアクセントを強調して読むような
不思議の国ジャポンみたいな、太った白人が化粧して着物着たような違和感を感じる。
ですから本屋で見つけても買わなかったでしょう。

実はこの小説わが社の社長から紹介されたのです。
先日、」社長と天皇家の相続についてはなしていて、
天智天皇がどうの、神武がどうのという流れで
日本とは?という話に転じ
そのうち外国人(西洋人)でも日本を愛し、日本に対する知識が恐ろしく深い知日家がいるという
ネタになりました。

そこでこの「シブミ」が登場。社長は偶然本屋で買ったらしいのですが
そこからこの小説についての話が始まりました。

ミュンヘン五輪から始まり、石油利権、上海の日本軍、戦後の日本での暮らし、軍事裁判、バスクでの暮らしなどなど、ほとんど全ストーリーを語ってしまった。
私は、上海の日本軍との話にビビッと来て是非読んでみたいと思いました。
そこで「私も買って読みますからストーリーは話さないでください。」などと
社長の話の腰を折るこのなど一介の末端社員には出来ず、
とうとう終わりまで行ってしまいました。その間、およそ45分。

ただ私の興味は潰えず、これだけ語るからには相当面白いのだろうと思い、
早速買って読みました。

 で、内容はといいますと期待に違わず読みでのある内容ぎっしりの深みのある小説でした。

その上海での日本軍ですがニコライが一緒に暮らす、岸川将軍は特務部長でした。
現代中国の歴史評価からすると上海の特務長なんていったら暴虐の限りをつくす
悪の権化のような存在でしょう。

しかし、このアメリカ人小説家の描く、岸川将軍は「国家の品格」を自でゆくような人格者なのです。彼のシブミに感動したニコライは生涯「シブミ」の追求を人生の目標としました。

では彼らの暮らした当時の上海とはどんなところか?
傲慢な若い新米ヨーロッパ人が痩せこけた少年のような中国人が
引く人力車の上でふんぞり返っている。
中略
外国の商館に雇われている脂肪のかたまりのように太った買弁が
ヨーロッパ人が自分の国の人間を搾取するのを利用して金を儲け、
西欧風の生活様式や倫理を猿真似している。(P96)


そしてこんな上海に新しい支配者として日本軍が入って来る。
外国資本家は自らの利権を守るべく日中両国軍へ市街地でも戦闘を避けるよう
依頼したが、国民党軍は利権のある外国の介入を誘って、
アメリカ製の戦闘機ノースロップで意図的に市街地を繰り返し誤爆し街を破壊した。
ここでも民衆の犠牲を屁とも思わない蒋介石軍の登場。

その後は日本軍が国民党軍を駆逐した。

将軍のたゆまざる努力によって、上海の街は次第に復旧しはじめた。
公共工事が回復し、工場は修理され、中国人農民がもどりはじめた。
通りの活気と騒音がよみがえって、ときおり笑い声が聞こえるようになった。
中略
中国人労働者の生活状態がヨーロッパ人の支配化にあった頃よりよくなった
ことは確かである。(P106)


繰り返しますがこの小説を書いたのは日本人ではありません。
アメリカ人です。第二次大戦の敵国でしかも蒋介石をバックアップしていたアメリカの国民です。なんとありがたい。

この小説家の知日ぶりはほんとにすごい。
上海の後、主人公は日本で暮らすのですがこのでも桜の描写なんかも
日本人以上に詩的な文章を書きます。もちろん原書は英語ですけど。
ぜひ読んでみてください。

日本ではこれまたシブミのある囲碁の名人に師事するのですが囲碁のことなんかは
私もチンプンカンプン(听不懂,看不懂)です。恐れ入ります。

この小説、暗殺者の冒険ものですが
作者の文化文明批評の書として読んだほうが面白いと思います。
おすすめです。

ニコライ、最後は日本人女性といっしょにバスクに暮らすんですよ。
石油利権にパレスチナ、日本にバスク。
小説家の創造力っていうのは想像を絶しますね。
バスク人はネアンデルラール人だなんて新説というかジョーク?も登場します。
バスクも知ってみたいなあ。

最後にこの小説は1979に書かれたことを知りびっくり
全然古く感じません。

以上
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by zhuangyuan | 2006-05-13 18:32 | 中国関連DVD、本 | Comments(0)
2006年 05月 07日

蒋介石の大量破壊兵器

最近北朝鮮の核がどうの、米軍再編がどうのと軍事関連ネタが世を騒がしていますが
先日ご紹介した「漢文力」(加藤 徹著 中央公論新社)という本に
春秋時代の大量破壊兵器の話が出てきました。

紀元前の時代に大量破壊兵器?
とお思いでしょうがそれは堤防を決壊させることだったのです。
でもこれは核兵器と同じで壊したら最後敵も味方もありません。みんな被害者です。
ですから冷戦と同じで誰もそれを使用することはなかったそうです。

でもそのとんでもないことをやった男がいます。蒋介石です。
1938年6月9日ついに禁断の兵器を使用したのです。

相手はご想像のとおり日本軍です。
日本軍の進撃の早さに恐れをなした蒋介石は「以水代兵」(水を以って兵となす)という
戦法を考えだし、日本軍の進撃をストップさせるため
黄河の花園口という場所を決壊させたのです。

以前にも蒋介石のこの暴挙については聞いたことがありましたが
あまりの考えに自暴自棄の末の衝動的行動だと思っていたのですが
ちゃんと軍事会議を開いて決定して、工兵を使って計画的に決壊させたのです。
それもそのはず黄河の大堤防は幅が30メートルもあるそうで
衝動的に壊すことなんてできない頑丈な要塞みたいなものでした。

敵をたたくためなら自国を街の一つや二つ水没させてもかまわない。
日本軍を倒すためなら自国の農民がいくら死んでも気にしないという
恐ろしい壮大な構想にビックら仰天しました。比叡山焼き討ちの信長がちっちゃくみえます。

その被害状況がまた凄まじい。そこまで蒋介石が予想していたか知りませんが
想像を絶する規模です。

这次洪灾,河南、安徽、江苏共计44县市被淹,受灾面积29000平方公里,受灾人口1000万以上,冲毁140万民房、淹没近2000万亩耕地。黄水所到之处,房倒屋塌,饥民遍野。这次洪灾,豫、皖、苏三省共有390万人背井离乡,他们一路乞讨,远的一直逃到陕西甘肃等省,从中原到西北,迤俪着一幅长长的饿殍图。因此而死的中国人民,还没计入上述八十九万人之内。兰封战役及花园口事件

今回の洪水災害では河南、安徽、江蘇の合計44県市を水没させ、
被害面積は2万9000平方キロ、被害人口1000万人、140万戸の民間住宅を破壊し、2000万畝の耕地を浸した。水はいたるところにあふれ、家屋は倒壊し、豫(河南)、皖(安徽)、苏(江蘇)三省では合計390万人が故郷を離れ、物乞いしながら遠くは陕西甘肃等省まで逃れ、
中原から西北まで餓死者の群れが続いた。これによって亡くなった中国人民は
上記の89万人の死亡者には入っていない。


堤防を一箇所決壊させて89万人が死亡するまさに大量破壊兵器です。
広島原爆だって14万人ですからすごいです。
でも良く考えたらこれも日本軍に対して行われたんですね。
相当恐れられていたんでしょう。

去年のスマトラ沖地震の津波の恐ろしい映像が記憶に新しいですが
あの凄まじい津波の死者が全世界で20数万人と言われてますから
それを超えるパワーを放出させてしまったのです。
全中国の日本軍を壊滅させるのならわかりますが
たかだた一地域の一部隊の進撃を止めるためにそこまでしますかね。
恐るべし蒋介石。

この蒋介石ただものじゃないところはそこからです。
これだけの大事件を起こしておきながら
この事件の真犯人を日本軍に仕立て上げてしまうのです。
国民党の宣伝部が日本軍が堤防を空爆して破壊したと発表したのです。

由国民党中央通讯社以国家新闻中心的身份对全世界发布黄河大堤被日军炸毁的讯息。”
中略
花园口决堤的消息迅速引起世界各国关注,一时间,无论路透社还是美联社的消息都显示出,世界各国舆论几乎一致谴责日军的这一暴行。


国民党中央通信社が国家ニュースセンターの身分で全世界に黄河の大堤防が
日本軍空爆により破壊されたというニュースを発表した。
中略
花園口堤防決壊のニュースは世界各国の関心の的となり、一時期、
ロイターだけでなくAPも報道し、世界各国世論はほとんど一致して日本軍の暴挙を非難した。


曰く、この謀略ニュースにより中国人民は一致団結して日本軍に対抗したそうです。
日本を倒すための必要悪としてはちとでかすぎる事件です。
この事件もっと有名でもいいような気がします。

でも蒋介石はともかくこれだけのパワーを秘めた黄河を大堤防を築き
人間のコントロール化に置いている中国文明ってたいしたものですね。
4000年も前からこの自然の脅威を制圧しているのですから。

以上
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by zhuangyuan | 2006-05-07 21:33 | 文化、歴史 | Comments(2)
2006年 05月 03日

民族英雄 鄭成功は日本人

 中国の歴史上愛国の英雄はあまたいますが私が気になる存在なのが鄭成功。
なぜなら日本人の血が入っているから。

 彼の父親は鄭芝龍といいまして貿易商というか海賊みたいなものでした。
鄭芝龍が長崎の平戸に住んでいたときに日本人女性を嫁にもらい
鄭成功が生まれました。当時の名前は福松ちゃん。7歳まで日本育ち。

 日本では近松門左衛門の国姓爺合戦で鄭成功が描かれてますので
知ってる人は知っている。(ちなみになぜ国姓爺かというと明の皇帝に皇帝の姓「朱」を授かったからだそうです。
でも恐れ多くて名乗らなかった。)

 平戸では今でも毎年鄭成功祭りをやっているそうです。
鄭成功の弟の子孫も健在だそうです。

 この鄭成功の母親が日本人であることが中国では意外に知られていない。
私の友人知人にこの話をするとほとんどの人が知りません。
民族の英雄がなんで日本人なんだ?という反応が多いです。
母親は芸者なのか?なんてのもありました。

鄭成功がなぜ英雄なのかというとまず明の復興を企てて最後まで
異民族国家清に対抗したから。
もうひとつはオランダに占領されていた台湾を奪回したから。

この台湾を奪回したというのが今の中国政府にとっては非常に重要。
私が持っている本
「影响中国历史进程的100位名人」(中国の歴史発展に影響を与えた100人)
にはこう書いてあります。

收复台湾,维护祖国领土完整,
把台湾同胞从侵略者的铁蹄下解放出来,符合全国人民的利益,也是郑成功的夙愿。


台湾を回復して祖国の領土を完全に保ち、台湾の同胞を侵略者の圧政から
解放することが全国民の利益と一致する。
このことが鄭成功の宿願であった。


ここまで書くと白々しい。政治臭さが感じれます。
実際は清の軍隊に福建で追い詰められて、
その対岸の台湾に抗清の根拠地を築こうとしてオランダから奪い取ったであり、
全国民の利益を考えていたとも思えないし、
祖国の領土をどこからどこまでと認識していたかはわかりません。
だってその祖国自体が清に攻められて風前のともし火だったんですから。
実際領土という地政学的認識より明朝という皇帝に付随する体制を保持するのに
必死だったんでしょう。

でもこの鄭成功は台湾を手にしてすぐに死んでしまう。
すると今度は後を継いだものが腐敗してしまったとのこと。
そして最後は清朝に統一される。
后来政治腐败,人心惶惑,台湾郑氏集团成了祖国统一的严重障碍

その後、政治が腐敗し、人心が惑わされ、台湾の鄭氏集団は祖国統一の重大な障害となった。

1683年清康熙帝最终完成了祖国的统一大业。

1863年清朝康熙帝が最後に祖国統一の大業を成し遂げた。


この辺が中国の歴史のしっくりいかないところ
愛国者鄭成功の宿敵の清がいつのまにか大業を成し遂げる主体になっている。
今度は康熙帝が愛国者です。
易姓革命ってどのへんが変わり目なんでしょうか?

 ある中国人の友人が言いました。
「鄭成功は昔はそんなに英雄視されていなかったんだよ。
台湾が政治問題化してから担がれた英雄なんだ。」

結局歴史は為政者がいじくるものなんですね。
でも現政府からしてみたら母親が日本人というのはちと気にかかることでしょう。

以上
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by zhuangyuan | 2006-05-03 22:39 | 文化、歴史 | Comments(11)
2005年 08月 03日

少子湯麺

少子湯麺とやらを初めて食べました。
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お客さんとお昼に浜松町駅前の上海園林というところで食べました。

このお店は以前からおいしいと聞かされていたのですが近くは通るものの一人で入るにはちょっと高級そうで入れませんでした。やっと念願がかなったという感じ。

評判に違わず少子湯麺は最高でした。
ひき肉をニンニクと唐辛子でいためたものをかけるだけのシンプルなものですがこれがうまい。
白いご飯とよく合います。
ここは麺もしっかりこしがあっていい。

じゃあなんで少子なの?と調べてみました。
相傳古代有位狀元考取功名返鄉宴客,憶起自家嫂子烹調一道麵食非常可口,於是央請嫂子烹煮招待客人,來客都非常喜歡這道麵食,但不知是什麼麵,只知是「嫂子做的麵」,逐漸遠播演變今日,而有「少子麵」、「紹子麵」之諧音的名稱。


繁体字ですが意訳してみます。
昔あるところに状元に合格して故郷に戻りお客をもてなしました偉いひとがいました。そのお方が自分の兄嫁が料理してくれた麺がとてもおいしかったことを思い出した。そして兄嫁に客人を招待する際に料理してくれるよう頼んだ。
客人はこの麺がとてもすきだだった。しかし、なんという麺かわからず、ただ「兄嫁(嫂子saozi)が作った麺」と覚えていた。それが今日に伝わり、「少子(shaozi)麵」、「紹子(shaozi)麵」という同じ音の名称になった。

ちょっと音は違いますが昔は同じだったか
発祥の地(江南)では同じ音なのでしょう。

以上
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by zhuangyuan | 2005-08-03 20:31 | | Comments(0)