中華 状元への道

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2006年 09月 10日

モンゴルが世界を創る

世界史の誕生
岡田 英弘 / 筑摩書房
を読みました。この著者の本は何冊か読みましたがどれも斬新な角度から中国の成り立ちを
分析しており大変面白い。

今度の本は副題に「モンゴルの発展と伝統」とあります。
そして帯には「歴史はモンゴル帝国から始まった!」と太字で書いてあります。
いわく、モンゴル帝国以前は世界は同一の歴史はなく、
中国を中心とする世界と地中海を中心とする世界が別々に存在しており
その歴史の考え方もばらばらであった。
モンゴルの世界帝国で初めて世界がつながり現代へと続いていくそうです。

中国の歴史を普通に眺めるとモンゴル帝国たる元は勢力範囲は最大であるものの
中国歴代王朝のなかではごく短い間、君臨しただけと考えがちです。
しかし著者の見方からすると元というのはそもそもモンゴル帝国のごく一部であり
中国を植民地化し、いくつもある植民地のうち中国部分を元と呼んでいたに過ぎないと。

そして明に破れて中国を失ったあとも消滅せずに各地で残ってゆく。
また中国を取った明でさえも行政方法などは元時代のものをそのまま活用したとのこと。

明のあとの清はモンゴルの継承国家であり、元朝の持っていた玉璽を引き継いでいたらしい。
そして清にとっても中国は植民地の一つに過ぎないと。
ゆえに清朝や元朝時代に勢力範囲となっていたチベットを現在の中華人民共和国が
領有権を主張するのは理屈が合わないとのこと。なぜならチベットは中国人の中国に
支配されたことは一度もないから。
それを主張するならモンゴルこそが正統国家になってしまうと。

中国以外にもモンゴル継承国家がいくつもあるそうです。
中国語教室でそんな話題をしていますと先生が言いました。
「ロシアとかインドとか、あとヨーロッパの匈牙利」

ロシアについては以前、エリツィンがチンギス・ハーンに似ていると触れたことがありますが
何百年もタタールのくびきに繋がれてたのですがから影響がないほうがおかしい。

でもインドはないだろ、顔も違うし、ヒンドゥー教の世界はまったくちがうでしょ。
と思いきやインドも継承国家なんです。
ムガール帝国って聞いたことがあると思いますがこれはモンゴルがなまってムガールなったんですって。
モンゴル継承のティムール帝国が南下して立てたのがムガール朝だとのこと。

で最後の匈牙利(xiongyali)とはどこなんでしょう。
ハンガリーでした。
そういえば以前聞いたことがあるハンガリーとはフン族の国だと。
フン族とは東方の遊牧民である。
一説によるとそれはモンゴル帝国を形成した遊牧民の起源の匈奴だとのこと。
表意文字中国語の面目躍如で匈の字をつけちゃいました。
でも外来語は表音文字で貫いてもらわないとさっぱりわかりませんでした。

フン族とは東方からやってきてゲルマン人の大移動を引き起こした。
ここでもモンゴル=遊牧民が世界史を作ったんです。

でもハンガリー=フン族説ってのは最近の学説では否定されていると
wikipedeliaに書いてありました。

日本は海に隔てられていますので元寇にもやられることなく
良かれ悪しかれ日本であり続けました。
でも日本の国技はモンゴルに乗っ取られましたね。
朝青龍は今日も強かった。

以上
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by zhuangyuan | 2006-09-10 22:37 | 中国関連DVD、本 | Comments(8)
2006年 08月 30日

究極のデザート

九龍城の記事の中に「三不管」という言葉が出てきましたが、
その記事へのかめ様のコメントの中に気になる言葉が残されました。

「三不粘」

なにやら食べ物らしいのですがこの謎の言葉をしらべるべく
中国版Googleで検索してみますと面白い文章が出てきましたので
中文和訳の勉強がてら前文をご紹介いたします。

才女唐琬与名吃“三不粘”(才女唐琬と名物料理“三不粘”)
唐琬是宋朝著名诗人陆游的表妹。她自幼聪慧,人称才女,后被陆游娶为妻,夫妻的感情很好。但陆游的母亲对这个才貌双全、贤惠能干的儿媳妇就是看不上眼,总是想方设法难为她。


唐琬は宋代の著名な詩人陸游のいとこである。彼女は幼いときから賢く、才女と呼ばれ、
後に陸游に妻として迎えられ、夫婦関係はとてもよかった。しかし陸游の母親はこの美貌と才能を兼ね備えた、賢くやり手の嫁に目をかけず、何かにつけて困らせた。


在陆游母亲六十寿辰这天,陆家宾客盈门,摆了九桌席,十分热闹。陆母想叫儿媳在客人面前出丑,吃饭间,忽然当着众人提出:“今天我想吃说蛋也有蛋,说面也有面,吃不出蛋,咬不着面;是火烧,用油炸;看着焦黄,进口松软;瞧着有盐。尝尝怪甜;不粘勺子不粘盘。不用咬就能咽的食物。”

陸游の母親の60歳の誕生日の日、陸家には賓客が集まり、
9卓ものテーブルが並べられとても賑やかだった。
母親は客の面前で嫁に恥をかかせようと思い、食事中、突然皆に言いました。
「今日私が食べたいものはこんなもの。卵といえば卵、麺といえば麺、でも卵とはわからないし
麺とも噛んでわからない。焼いたもので、油でいためてある。焦げた黄色に見えて 
口のなかでふわふわする。塩がついているようで、舐めると逆に甘い。
スプーンにも皿にもくっつかない。噛む必要がなくて、すぐ飲み込めてしまう。そんな食べ物よ。」


唐琬心理明白。婆婆是又在为难她。她二话没说,走进厨房。在面盆里打了几个鸡蛋,再将鸡蛋黄加入淀粉、白糖、清水,用筷子打勺,过细罗。炒锅添入熟猪油,置中火上烧热,倒入调好的蛋黄液,迅速搅动。

唐琬は気づきました。姑さんはまた困らせているのです。彼女は二の句を接がず、台所に入りました。
ボールのなかにいくつかの卵を割り、黄身の中を澱粉と砂糖、水の中に加え、箸でこね、ざるを通します。
鍋にラードをいれ、中火にかけ、混ぜ合わせた黄身の液をいれ、すばやくかき混ぜます。

待蛋黄液成糊状时,一边往锅中徐徐加入熟猪油,一边用勺不停地搅拌,蛋黄糕变的柔软有劲,色泽黄亮,不粘炒锅,一会儿功夫就做好了。唐琬将热腾腾、香喷喷的食物盛在一个盘子里,撒上点细盐恭恭敬敬地送上餐桌。客人们一看,合乎要求,一尝,更是口感酥软,甜咸适宜,都夸唐琬心灵手巧.

黄身の液が糊状になったとき、鍋に徐々にラードを加え、一方でスプーンでとまることなくかき混ぜます。
黄身の液が柔らかくそして、粘りがでて、黄色い輝きがでて、鍋につかなくなり
少し経ったら出来上がり。
唐琬はあっつあつで香りが漂う食べ物をお皿に盛り付け、さっと塩を振り掛けると
恭しくテーブルに運んでいった。
お客さんたちは見るなり、これは要求にかなったものだと認め、
一口食べると、柔らかな感触で、甘さと塩辛さが程よくまじり、唐琬の賢さと手腕をほめました。

这个菜一不沾盘,二不粘勺,三不粘牙,清爽利口,因此大家给它起名叫"三不粘",后来成为传统名食,深受人们喜爱.


この料理は一に皿につかない。二にスプーンにつかない。三に歯につかない。
さわやかで口にやさしい。
こうして皆はこの料理を"三不粘"と名づけました。
そして後に伝統の名物料理となり、人々の好物となりました。


なんか涎がでてきますね。ぜひ食べてみたい。
ヨークシャープディングみたいなものですかね。
想像が膨らんで楽しいです。

Googleでイメージ検索をしてみると写真が出てきました。
d0018375_22563071.jpg

写真をみるとなんか興ざめですね。
あまりうまそうじゃない。

でも今度試してみよう。

ところで宋代の愛国の大詩人も嫁姑の関係に悩んでいたなんて笑っちゃいますね。
その後このせいで二人はすぐに離婚することになってしまったとのこと。

でも陸游さんは彼女が忘れられなくて晩年になっても彼女を詩に詠んでいます。
そんなにうまかったのでしょうか?「三不粘」が。

以上
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by zhuangyuan | 2006-08-30 23:01 | | Comments(12)
2006年 08月 26日

回想 九龍城砦 恐怖の体験

中華中毒―中国的空間の解剖学
村松 伸 / 筑摩書房
を読みました。

この本は題名がいい。私も中華中毒にかかっているくちなので以前から気にかかっていました。
表紙もいい清国皇帝の肖像です。黄色の衣装が目に映えます。
以前、清朝の皇帝衣装展を見に行ったことがありまして。この黄色のきらびやかな衣装を見ました。きらびやかさより小ささに驚きました。
子供のころのものかも知れませんがこんな小さな服をきた男が世界を睥睨していたのかと、
そのギャップに驚きました。

この本は中国的空間の解剖学というくらいですので
中国の歴史のなかの建築での風水や儒教、道教の絡み合い、
またその思想の周辺国への影響を述べた本です。
こう書くと堅苦しいですが、学者らしからぬ軽いタッチで筆者の中国大好きぶりマニアぶりがいたるところで発揮されてとても楽しく
そして知的好奇心を刺激される面白い本でした。

ご紹介したいネタが凝縮されていました。
導入部はいきなりプレイステーションの話。
わたしゲームはまったくしないので知らないのですが
「クーロンズ・ゲート」とかいうのがあるらしく
今はなき九龍城砦を舞台にして主人公の風水師に成り代わり陰と陽の乱れを修正していく
というとんでもないゲームらしいのです。
風水という中国古来の思想は私いまだにまったく理解できないので非常に興味があります。
それをロールプレイングゲームにしちゃう日本人ってすごい。

ところで本のネタは今後ゆっくりご紹介するとして
私は学生時代この九龍城砦に行ったことがあります。
そこで私は恐怖の体験をするのです。
1993年に取り壊されたのですが私が行ったのは91年です。

九龍城砦は警察の手の届かない無法地帯として犯罪者の巣窟となり
建て増し建て増しの違法建築に密入国者を含めた何万にもの人が住んでました。
複雑に絡み合った建物は一度入ったら出てこれないといわれていました。
wikipediaにある写真はこんな感じです。1989撮影と書いてあります。
d0018375_20351667.jpg


中国語版wikiによると九龍城砦は香港がイギリスの殖民地であったときも
清国の飛び地であった。そしてその後の戦争などの混乱で管轄権がぐちゃぐちゃになる。
wikiを引用します。
日軍佔領香港期間,為了擴建啟德機場的明渠,拆毀了全部城牆。日本投降後,露宿者開始在九龍寨城聚居,並於1948年成功抵抗英國政府進入整頓。由於皇家香港警察、殖民地政府無權進入,中國的政權又拒絕管理,九龍寨城頓成罪惡溫床、貧民區,更有以「三不管」(即中國不管,英國不管,香港不管)來形容當地的管轄權問題。

日本軍が香港を占領していたとき、啓徳空港拡張のため城壁をすべて取り壊した。
日本敗戦後は露天で暮らしていた人々が九龍城に集まり、1948に英国政府に
抵抗して進入することに成功した。
ロイヤル香港警察も植民地政府も進入する権利がなく、中国の政権も管理を拒絶し
九龍城砦は犯罪の温床、貧民地区となり、また「三不管」(中国もイギリスも香港も管理しない)
という表現で形容される管轄権の問題が発生した。


その後も中国の共産党から逃れる人々などが入ってきて
巨大化していきます。

それを香港返還前に取り壊そうということになっており
その前に探検してみようと行って見ました。

当時大学三年だった私は現地で知り合った友人と二人で行ってみました。
はっきりってかなりビビッてました。
着いてその雰囲気に早くも圧倒されました。
犯罪者の巣窟だというし、一度入ったら出れないといわれているのですから怖くて当然です。

もちろん財布などは持たずジーパンにTシャツ、カメラも持ちません。
普段はサンダルでしたが逃げられるようにスニーカーを履いていきました。

上を見上げるとなんか崩れてきそうな違法建築でなぜだか歯医者がやたら多かった。
こわいこわいでも入ってみたい。ということで入ってみました。
暗い。ずんずんと奥に進みましたが50mくらいでバックオーライ。戻っちゃいました。
はっはっは。度胸がありません。

でもここで帰っちゃ男が廃る。
奥へ進むのがだめなら上にの上ってみよう。
なるべく明るいところを見つけて団地の階段みたいなのを上がっていきました。
崩れないかなとビビリつつ。
狭い階段で視界が狭く、しかも急で、曲がりもきつい。

そこで恐怖の体験をするのです。

三階くらいまで上がったときです。
私は思わず大声で叫びました。「あ~!!」
うんこ踏んじゃったんです。
犬のか、人のか知りません。

いっしょにいた友人は叫び声に驚き、
階段を踏み外しそうになるくらい焦って逃げました。
ごめんなさい。

風水により設計された九龍で運(うん)をつけて退散いたしました。
疫病にびびりつつ。
以上

以上
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by zhuangyuan | 2006-08-26 20:58 | 中国関連DVD、本 | Comments(13)
2006年 08月 20日

愛国英雄ってどんな人?文天祥

今週大阪に滞在した一週間の間に何を読もうかとさんざん迷った挙句、
三冊の本を持って行きましたがが結局読めたのは一冊でした。

「海嘯」(田中芳樹 中公文庫)
この作家の本は初めてでした。
中国系の本やSFっぽい題名の本をよく見かけて気になっていました。
とくに岳飛伝を翻訳しているので読んでみたいと思ってました。

この「海嘯」は宋が元に滅ぼされた最後の三年間を描いたものです。
なぜ購入したかといいますと文天祥が主人公の一人であったからです。

以前に中国出身のお客さんと食事をしていたときに岳飛の話になったことがありました。
その時彼が言いました。
「状元さん、中国の愛国の英雄といえば岳飛より文天祥のほうが人気がありますよ」

私はこの時まで文天祥を知りませんでした。
早速家に帰ってから「影响 中国历史进程的100位名人」(中国歴史に影響をあたえた100人)
という本で文天祥について読んでみました。

はっきり言って消化不良でした。
なんで英雄なんだ?

というのも解説によると
この方、元軍との戦いで英雄的な勝利を収めたわけでもなく
元軍にすぐ捕らえたれてしまいます。

ただ捉えられた後に元に屈することなく愛国心を発揮し
最後まで元軍に降伏することなく処刑されるのです。
フビライ・ハンはこの文天祥の才能を高く評価していたらしく
宰相に取り立てるといって誘いますが頑として首を立てに振らずに死んでゆくのです。

英雄というと最後まで戦い、戦いで命を落とすイメージがありますので
なんか違和感を感じました。

そこでこのフラストレーションを解消すべく今回「海嘯」を読んでみたのですが
更にたまってしまいました。

宋滅亡の前は状元でありながら、
強硬派のイメージがつよく、取り立てられず、
滅亡直前に丞相になりますが和平交渉で軟禁されてしまう。

そのご脱出して兵を挙げるも
宋逃亡政府とは合流することもかなわず、再度つかまってしまう。

そして最後に宋が滅びる戦いでは敵の船に軟禁されて
その戦いを見ている。
最後には元の首都、大都に連れられる。
そこで最後まで愛国心を失わず、元に仕えることなく死す。

なぜ彼がそんなにも愛国英雄として評価が高いのか?
以前読んだ「中国人の愛国心」(PHP新書)という本にも愛国英雄の典型として
紹介されてました。

なぜかというと彼は言葉を残したからです。
特に獄中で詠んだ「正気の歌」は歴史上の愛国者を描き
自らの無念を憂いた名作とされています。
どんなに英雄であっても文字に記され後世に伝わらなければ英雄足りえません。
逆に功績はともかく、文字に残されたもので自分の熱きたぎりを伝えることができ
それが後世の人々の心を揺さぶれば英雄として歴史に刻まれます。
さずが文字の国中国。

陳舜臣の「中国の歴史」第10巻によると
この「正気の歌」は日本にも多大な影響をあたえ
幕末の志士にもつながってゆくとのこと。
吉田松陰もそれに倣って「正気の歌」を詠んだそうです。

さらに戦前には日本の教科書にも
文天祥が載っていたそうです。
びっくりです。

以上
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by zhuangyuan | 2006-08-20 22:29 | 中国関連DVD、本 | Comments(5)
2006年 08月 19日

新幹線で学ぶ 「いわゆる A級戦犯」

一週間ほど大阪の妻の実家に行っておりました。
大阪は暑い。

京都駅で帰りの新幹線を待つ間、いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL
小林 よしのり / 幻冬舎
を購入。自分が本の世界(マンガですけど)に入るため、子供たちにも買いました。
娘には「シナモンのなぞなぞチャレンジ150」
息子には「仮面ライダー 超戦士大百科」

駅弁を食べた後に、本を読み始めると隣の娘がいいます。

「ねえ パパ、くりは くりでも つめたくて あまい くり ってなんだ?」
「パパは本読むから一人でやってなさい」
「ねえ 答えどこに書いてあんの?」
「次のページでしょ」
「ねえ パパ、みんなが よろこぶ すてきな たべものって なあに?」
「ステーキでしょ」
「えっ? ステッキ? ステッキってなあに?」

「ちょっと静かにしなさい。パパは本読むんだから。」
「ねえ、パパ何読んでの? あっマンガだ! 大人なのになんでマンガ読んでんの?」
「これは大人のマンガなんだよ!」

ふと自分のいった言葉にが周囲の人に誤解を与えるのではないかと心配に。
大人のマンガというと何かエロ雑誌を想像してしまいました。

「戦争のマンガなんだよ」 とすかさずフォロー。これは周囲の人に向けた言葉です。
「戦争ってなに?」
ぜんぜん読めません。

そのうち娘も疲れたらしくおとなしくなりました。

で本に戻りますが
昨今、小泉首相の靖国参拝問題からA級戦犯合祀だとか、天皇発言だとかで
世間が騒がしいですが、中国語を学ぶ身としても何かと話題にあがるこの問題について
ちょっとは齧っておこうという気持ちから購入しました。

のっけからハッとすることが書いてあります。

日本のギャルが出てきて
A級戦犯とは誰のことかと問われて答えます。
「えっと トウジョウヒデキ?あとは知らな~い」

参拝賛成、反対とかいいつつもたいていの人は
誰がA級戦犯でそもそもA級の定義すら知らないと。

なにを隠そう私も合祀された14名を挙げろといわれても言えない。
死刑になった7人と聞かれても全員は言えない。
いまは言えますよ。読んだから。
処刑された7名のうち木村兵太郎なんて名前すら知らない。

天皇発言で出てきた白鳥敏夫(メモでは白取)なんて人物もここで初めてしりました。
こうした人物がどんな人であったかを知るだけでも価値があった。

ABC級の定義とは連合国の定義によると

A級 戦争を遂行した国家指導者など
B級 戦争で命令する立場にいた指揮官など
C級 実行した兵隊など

で戦勝国のアメリカを中心とした連合国が
戦敗国の日本だけを見せしめのためにつるし上げた偽装裁判であるというのが本書の主張です。

確かに当時の日本は今のイラクみたいにつるし上げられてたんでしょう。
大量破壊兵器製造なんていってありもしないことをでっち上げられて
めちゃめちゃにされる。

そしてフセインが裁かれる。
でも日本がイラクと違うのは独裁国家ではなかったこと。
東条英機でさえ戦時中の首相の一人でONE OF THEMでしかない。
スケープゴート的でさえある。

東京裁判によると
処刑された7名を含む国家指導者が共同謀議し
世界制覇をたくらんで着実に侵略をすすめてきたということらしい。
これは中国の偽文書田中上奏文に基づく思想から導き出されたシナリオだという。
でもこの時代の日本の分裂と混乱は少し研究すればすぐわかることで
共同謀議で世界侵略なんてカッコのいい状態ではなく
なんとなく空気がそうなったので勢いつけてやってしまって戦線拡大し
結局大破局を迎えるというおよそ戦力なしの行き当たりばったりの行動が多かったのではないでしょうか。

でそのいわゆるA級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝するのは
けしからんと中国が抗議し、日本でも大議論になってます。

この大阪での休みの間も15日に小泉首相が参拝し
その日のNHKでも「日本のこれから」とかいう問題で靖国参拝問題について
麻生大臣や各界識者、視聴者などが議論をしておりました。

大阪の家はクーラーのある部屋がひとつしかなく
その部屋で我が家4人はざこ寝をしたのですが
そこにテレビも置いてあり
子供たちが寝たあと部屋を暗くして
一人で小さな音で、前日の日中戦争特集とその日の靖国の番組を見ました。

はっきり言って見る価値のないものでした。
なぜなら皆さん好き放題のことを言って
ぜんぜん議論がかみ合わず、そもそも議論になっていない。
司会者もそれをまとめられない。
途中で寝ました。

ともかく靖国問題には論点が沢山ありすぎてわけわかりません。

*首相が参拝すべきか否か?
*終戦の日に行くべきか否か?
*A級戦犯合祀は問題か?
*そもそも東京裁判が裁いたA級戦犯は犯罪人か?
*戦争指導者は犯罪者か?
*処刑された戦犯は戦死者か?
*アジアとの歴史の清算は済んだのか?
*中国の圧力は内政干渉か?
*政教分離はできているか?
*天皇はなぜ参拝をやめたのか?
*参拝することは戦争礼賛なのか?

私はあまり知識はありませんが自分の感覚的には次のような意見です。

国の防衛に尽くして亡くなった方々の慰霊のため
首相が参拝するのは当然。
終戦の日はもっとも記憶にあたらしい戦争を振り返るためのよき日だと思う。
東京裁判は勝者が勝者の論理で反証なく裁いたものであるから無効。
よってA級だけ分祀するのはナンセンス。
アジアとの清算は国際法上は済んでいる。
中国政府の首相非難は日本への内政干渉というより
中国国内向けのパフォーマンスなので気にしない。
議論してもしょうがない。批判自体が目的ですから。
戦争礼賛でなく、過去の失敗を繰り返さない決意であることを淡々と説明すればよい。
天皇のことや政教分離のことはわかりません。

まあこうした議論が日本全国で行われるわけですから
あの戦争への検証をするいいチャンスを小泉さんが与えてくれたといえるでしょう。

以上
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by zhuangyuan | 2006-08-19 14:23 | 中国関連DVD、本 | Comments(4)
2006年 08月 09日

階級闘争 なんじゃらほい?

今週から通勤電車で上海書城で買ってきた「当年事 南方周末 解密档案(あの年の出来事 南方週末 調書の謎を解く)」という本を読み始めています。

まず読んだのは「刘少奇,毛泽东和四清运动(劉少奇、毛沢東と四清運動)」という記事でした。
劉少奇は国家主席であるにも関わらず文革で毛沢東と対立して失脚しましたが、
国家の最高権力者がいかにして権力の座から引き摺り下ろされるのか以前から興味がありました。

劉少奇と毛沢東の対立は階級闘争の定義にあったとのこと。
劉少奇の闘争対象は官僚主義や官僚主義的特権であり
毛沢東のそれは走资本主义道路的当权派(資本主義の道を進む権力者=劉少奇だった。
権力が劉少奇に移っていくのを防ぎたかった毛沢東の嫉妬もあるのでしょう。

まあこういった政治の話はややこしいのでやめます。
大体からして階級闘争といったって私には実感がありません。
そんな明確に区分できるものでもないでしょう。

でも文革の時の中国ではそれを明確に定義して教育したとのこと。
本日中国語教室でそんな話を聞きました。

老師の母親は文革時に学生だったとのことですが
世界人口の三分の二は「水深火热」の中にいると教えられていたそうです。
つまり塗炭の苦しみの中で生活していると。
では三分の二とはどこの人か?
資本主義国家の住民のことだとのこと。
文革時の中国はもう一方の幸せなほうの三分の一にいると教えられていたそうです。

当時はいまの北朝鮮と一緒で一般人は海外の情報がまったくなかったので
それを信じてたといいます。

でも海外のこと知らなくたって文革時の凄まじい生活が幸せなわけないでしょ?と問うと。
それは比較の問題で30年代、40年代、つまり解放前に比べるとずっと幸せだとのこと。
以前の記事でもその凄まじい30-40年代を紹介しました。
蒋介石の大量破壊兵器

歴史の奔流 「温故 一九四二」

確かに比較対象が凄すぎる。

そしてその母親と老師は数年前一緒にヨーロッパに旅行に行ったそうです。
そこで発展する町並みを見ながら母親に尋ねたそうです。
文革の当時にもしこの町並みを見たら社会主義を信じ続けられることができたかと。

母親曰く
「その時これを見たら阶级敌人的假象(階級の敵がつくった見せかけの姿だと思ったでしょう。」
つまり本当の豊かさを見せられてもそれを偽者だと思ったであろうということです。

洗脳ってのは本当にすごい。

以上
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by zhuangyuan | 2006-08-09 22:59 | 文化、歴史 | Comments(10)
2006年 08月 06日

歴史の奔流 「温故 一九四二」

上海書城という記事の中で触れた「温故 一九四二」(刘震云)を読み終わりました。
短編集の中の一編なので短いものですのですぐ読めました。
短い中に中国の歴史と矛盾が詰まっている濃密な内容でした。

中国語の本はまだ10冊も読んでいませんがどれもこれも内容が濃くて
心に響くものばかりです。私が思うに外国語の本を読むときは、さらっと流して読むわけにはいかず一字一句逃さずに、
またわからないところは何度も繰り返し読むので
母国語の本を読むより、深い理解ができるのではないかと感じています。

以前の記事の中で内容について
国民党が見捨てた飢餓を日本軍が救ったことを描いた「小説」と書きましたが
小説でなく、ノンフィクションでした。

なぜ不倶戴天の敵、日本軍の善行を現代中国で描くことができたのか?と疑問でしたが
この本を読んで納得できました。

日本軍が飢餓を救ったことは触れられていますが、それは主題ではなく
主題はもっと壮大で荘厳なもの、歴史の大きな流れの中で、民衆がどう翻弄され
統治者がどう行動するかを描いたものです。
これは単に日中戦争時の一時代を描いたものでなく、中国悠久の歴史の中で幾度も
繰り返されてきた悲劇であり現実であり、なお今日の矛盾にも通ずるものがある。

1942年に河南省で大干害があり500万人が被害に会い、300万人が餓死した。
灾民吃草根树皮,饿殍遍野。妇女售价累跌至过去的十分之一,
壮丁售价也跌了三分之一。寥寥中原,赤地千里,河南饿死三百万人之多。

被災者は草や根、樹皮を食べ、餓死した死体が散乱した。
婦女の売値が過去の10分の一に値下がりし、成年男子の価格も3分の一に下落した。
寂寥とした中原は、乾いた赤土が果てしなく続き、河南で300万人強が餓死した。


時は折りしも第二次世界大戦の最中、中国は国民党委員長蒋介石が統治していた。
当时中国国内形势,国民党、共产党、日军、美国人、英国人、
东南亚战场、国内正面战场、陕甘宁边区,政治环境错综复杂,如一盆杂拌粥相互搅和,
摆在国家最高元首蒋介石委员长的桌前。别说是委员长,换任何一个人,
处在那样的位置,三百万人肯定不是他首先考虑的问题。

当時の中国国内情勢は、国民党、共産党、日本軍、米国人、英国人、
東南アジアの戦場、国内の戦争、陕甘宁地区、政治環境は錯綜して複雑で、
御椀の中で粥が掻き混ぜられるように、国家元首蒋介石委員長のテーブルの前に
並んでいた。委員長でなくとも、他の誰であっても、そうした地位にいる人にとって
300万人の問題は確かに優先的に考える問題ではなかった。


中国の大物政治家にとって歴史的観点から見るならば、
たった300万ぽっち餓死したところでたいした問題ではない。
それより世界に伍して中国を生き延びさせることを考えねばならない。

との考えで重慶の官邸にこもり、宋美齢と暖かいコーヒーを飲んで戦略を練っている。

中国历来政治高于人
(中国は歴史上政治が人民より上にくる。)


作者はこの事を別に非難するわけでなく淡々と描写する。

別に蒋介石は知らなかったわけではない。
報告はあがってます。
でも地方役人が税金を払いたくないために嘘を言っていると思ってたそうです。

ただこの時代もジャーナリズムがありますので
米国人ジャーナリストが世界に向けてこの餓死を報道する。
そこでやっと蒋介石も思い腰を上げ救済に乗り出す。

外国人救灾是出于作为人的同情心、基督教义,不是罗斯福、邱吉尔、
墨索里尼发怒后发的命令;中国没有同情心,没有宗教教义、
有的只是蒋的一个命令———这是中西方的又一区别。

外国人が救済活動をするのは人としての同情心であり、キリスト教の教義からであり、
ルーズベルトやチャーチル、ムッソリーニの怒りの命令からではない。
中国は同情心はなく、宗教教義もない、あるのはただ蒋介石の命令だけである。
これが西洋と中国の違いである。


歴史的に戦乱が絶えない人口大国においては人命なんてピーナッツほどのものか?
ヒトラーやルーズベルト、チャーチルからすれば
蒋介石なんてピーナッツだと著者は言っていますが
ということは人民はピーナッツの皮くらいの扱いですかね。

蒋介石の命令のもと救済が始まるのですが
そこがまた広大な中国。
なかなか被災民まで物資や援助金が届かない。
途中の地方役人が中抜きしてしまいます。

地方役人は被災認定される前まで、被災区においても重税を搾り取り
しかもその貴重な食料を転売して私財を蓄える不届きものの小役人もいたそうです。
いまも地方でそんな事件が報道されてますね。

ほんと一般人民なんてなんとも思われてない。
そこで翌年今度はイナゴの大群に襲われ、追い討ちをかけられるです。

でも全人民が餓死せず今日まで生き延びてこられたのはなぜか?
それは日本軍が征服してくれたからなんです。

日本发军粮的动机绝对是坏的,心不是好心,有战略意图,有政治阴谋,
为了收买民心,......,但他们救了我们的命

日本は軍隊の食糧を提供した動機は絶対に悪であり、良心からではない、
戦略的意図があり、政治的陰謀で,民心をたぶらかすために.......
しかし彼らは命を救ってくれた。


是宁肯饿死当中国鬼呢?还是不饿死当亡国奴呢?我们选择了后者。
むしろ餓死して中国の亡霊になるか?
それとも餓死せずに亡国の徒になるのか?
我々が選択したのは後者だった。


政治はなんのためにあるか?
国民の安全と生命を守ることが基本です。
食べさせてくれる統治者を望むのは当然でしょう。

短いけど思い文章でした。
ずいぶん引用しましたが本を読むと更に深い理解が得られると思いますので
一読をお勧めいたします。
飢餓の様子はあまりにむごいのでご紹介するのをためらうほどです。
ネットでよんでもいいですし。

以上
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by zhuangyuan | 2006-08-06 17:14 | 中国関連DVD、本 | Comments(4)
2006年 06月 26日

第二次簡体字化計画

銀座に台湾が!という記事の中で繁体字について触れました。
記事のコメントの中で、
我がブログの一二を争う中国通の老同学である、かめ様、dashiさまが第二次簡体字化計画というものが存在したとのお話をしていただきました。

興味があったので中国サイトで検索してみました。
よくまとまったサイトを見つけましたのでご興味のある方はご覧下さい。
不成功的“二简字”

こちらには当時公布された簡体字化草案の一覧表が載っていますので
かめ様、dashiさまも若かりし学習の日々に戻ってご覧下さい。

確かにご紹介のとおり、 雪→ヨ、街→〒、私→ム というようなやりすぎのものもあります。
これならいっそのこと全部カタカナにしてまえって感じです。

dashiさまのおっしゃるがごとく表意文字の特質を無くすような試みです。
韓国語やベトナム語はもともと漢字圏であり、もとは漢字を使っていましたが
中国からの文化的独立を意図して、韓国は表音文字ハングルを開発し、ベトナムはアルファベットを用いました。

中国も最終的には漢字を廃止してpinyin化しようとしたこともあるとのことですが
そうなっていたら多くの漢語表現が消滅したことでしょう。

ともかく第二次簡体字化も廃案に追い込まれ、pinyin化も夢想に終わったのですが
この第二次簡体字化は影響が大きかったらしいのです。

なぜなら10年近くも使用することが推奨されたからです。
1977年12月に発表され1986年まで使用されたのです。

人民日報は発表翌日から使用を開始して、学校教育などでも使用されたとのこと。

少し記事を引用します。
由于曾经在社会上“二简字”被使用了一段时间,而且简单易写,废止后的“二简字”有时会出现在非公开的需要快速书写的文本如笔记、病历等,在公共场所也影响着现在的社会生活,市场、商场甚至路牌等重要场所都有出现二简字。比如:市场中“鸡蛋”经常被写作“鸡旦”,公共场所“停车”被写作“仃车”。

かつて社会において「第二次簡体字」が一定期間使用されており、
また簡単に書くことが出来るため、廃止後も「第二次簡体字」は時々、
ノートや病歴など速記する必要がある場合に非公開に出現する。
公共の場においても現代生活、市場、デパートまたは標識などの
重要な場所に影響を及ぼし第二次簡体字が出現している。
たとえば市場では“鸡蛋”(たまご)を“鸡旦”と書き,公共の場で“停车”(停車)を“仃车”
とよく書かれている。


10年も使ってからダメだといわれても遅いですよね。
でもそのころは現代にデジタル社会が出現しみんな手書きで文章を書かずに
ワープロを用いることなんか思いもよらなかったでしょう。

おかげで私でも繁体字かけますよ。PC上では。
ここまで進んだからにはもう二度とこの計画は持ち上がらないでしょう。

ところで繁体字で思い出しましたが
私の名前も簡体字であることを発見しショックです。
私の下の名前は 「岳」 (ガク)といいます。
意味は高い山のことです。(例:八ヶ岳)
昔は「嶽」 と書いたのです。富嶽百景といいますよね。

以前からこの「岳」という字は
なんで岳父(妻の父親の意)とかいう言葉に使うのだろうと思ってましたが
ちがう言葉で字だけ拝借したんですね、「山」の意味のほうは。

なんか略字だと軽く扱われたような気がします。

最後に余談ですが
世の中の鉄鋼会社のホームページを見て、会社名の「鉄」の字をご覧下さい。
「鐵」 となっていますでしょう。

なぜでしょう?

「鉄」 は「金を失う」と書くので営利企業として縁起がわるいので
旧字体を使うのです。へえー、へえー。

これも簡体字の失敗例ですね。日本版ですけど。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-26 22:38 | 文化、歴史 | Comments(7)
2006年 06月 11日

宦官英雄 鄭和

宦官ブログとしての第一歩は
偉大なる英雄、鄭和からはじめましょう。
明の時代に大旅団を率いて7回も大航海を決行した英雄です。
*宦官を知らないかたは宦官物語参照してください。

鄭和はまたの名を三保太監といいます。この太監というのは宦官の通称です。
ただ自ら進んでなったわけではありません。
明の全国統一の過程に当時雲南にいた12歳の色目人鄭和は美少年だったため
戦利品としてとられ去勢され朝廷に送られます。

そこで仕えたのが後の永楽帝、燕王朱棣。
これがラッキーでした永楽帝は洪武帝が宦官の登用を禁じたのに反して
どんどん優秀な宦官を登用したそうです。
そこで鄭和は宦官トップにのぼりつめたんです。

そこで永楽帝は大船団を率いて大航海をすることを計画します。
なんのために?
諸説ありますが有力なのは
《明史·郑和传》中记曰:“成祖疑惠帝亡海外,欲觅踪迹,且欲耀兵异域,示中国富强。”

「明史、鄭和伝」の中に記されているのは「成祖(永楽帝)は恵帝(建文帝)が海外逃亡したことを
疑い、捜索したいと考え、且つ軍隊の威勢を異国に示し、中国の力を誇示しようとした。


永楽帝は3代目皇帝ですが
甥である2代目皇帝建文帝を倒して政権をとります。
でも彼がいなくなっちゃった。彼を探し出すために大船団を派遣した。

その船団の団長に抜擢されたのが鄭和。
なぜか?
国際性を持ち合わせた大人物だったから。

陳舜臣の中国の歴史(平凡社 全15巻)の第11巻によると
鄭和は色目人。西域に住む人たちのことでイランかトルコ人のような感じでしょう。
しかも父親はイスラム教徒でメッカ巡礼も経験しており、
子供のときからこの冒険譚を聞かされて育ったんですって。
またペルシャ語も話せたし、コーラン読むからアラビア語も出来る。
中国にいますから四書五経も読みこなしたと言いますからすごいです。

しかも美男子で体もデカイ。でもチ〇ポはない。
こんな国際感覚豊かな知識人は見つけようとしたってなかなかいないでしょう。
なるべくしてなったって感じでしょう。

そこで7回の大航海に出かけるのですが
彼の人柄のおかげで大きな戦争もなく、友好的な交流ができたということです。

でも実際は他国にしてみれば戦いたくてもとても戦える相手ではない。
馬鹿でかい船と大多数の船団と兵士を率いていったんです。

本によっていろんな数が載ってますが
208隻の船と乗組員37800人。(62隻,27800人との説もあり)
いずれにせよすごい数字。

船のデカさ度肝を抜きます。
最大的长44丈4尺,宽18丈,是當時世界上最大的海船,折合現今長度為151.18米,寬61.6米。船有四层,船上9桅可掛12張帆,錨重有幾千斤,要動用二百人才能啟航,一艘船可容納有千人。

最大長さ44.4丈、幅18丈、で投じの世界最大で今の長さに換算すると
151.18m、幅61.6m。船は4層にわかれ9つのマストに12の帆がかかり、
錨は数千斤で、200人かけてやっと出航でき、一艘あたり千人収容できる。


重さは8000トン級だったそうです。その93年後のバスコダガマの航海時の舟は120トン
だったそうですからいかに巨大かわかります。

こんな船団が突然やってきたら
「ごめんなさい。何でも出しますから許してください。」ってなっちゃいますよね。

日本なんかは幕末に黒船4隻で震え上がってしまうんですから。
ちなみに黒船の最大長さは78mです。ちっちゃいちっちゃい。
全部に合計1000人くらいのってたらしい。幕末の黒船

これが来ただけで
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
となっちゃうわけですから。

で鄭和は今の国名でいうと
ベトナム、タイ、インドネシア、スリランカ、インド、イエメン、サウジアラビア
ソマリア、ケニアなどに足跡を残すのです。なんか興奮してきますね。このスケール。航海図

でも鄭和も友好的な態度をとおしたらしく
スリランカで発見された石碑には三ヶ国語でこんなことがかかれていたそうです。
これも陳舜臣さんの本に載ってました。
私は中国語のサイトから引用しましょう。

这块石碑引人瞩目之处,在于碑文分别用中文、泰米尔文、波斯文三种文字写成。中文的碑文说的是,郑和等受明代皇帝派遣,下西洋时来到斯里兰卡巡礼圣迹,布施香礼,以竖碑记之的情况,
(中略)
泰米尔文的碑文表示的是对南印度泰米尔人信奉的婆罗门教保护神毗瑟奴的敬献;波斯文的碑文则表示对伊斯兰教信奉的真主给予敬仰之情

この石碑が注目されるのは漢語とタミル語、ペルシャ語の三種の文字で碑文が書かれていることです。
漢語で書かれているのは、鄭和が明の皇帝により派遣され、西洋に出てスリランカに着き
聖跡を巡礼し、お布施して碑を建立した様子が書かれている。
タミル語の部分は南インドのタミル人が信奉するポロメンの守護神ピサヌへの献身を記し、
ペルシャ語はイスラム教のアラーへの敬愛の念を記してある。


この宗教への寛容さに鄭和の懐の深さを感じます。
異民族が来て石碑建てて示威的態度に出ると思いきや地元の神に祈る碑をたてる。
粋な人です。

このサイトでは次のように続いていきます。

这块石碑是郑和以及当时明朝皇帝平等宽容精神的体现和象征,同时也表明中国当时具有极为宽广的胸怀和世界性的眼光。 

この石碑は鄭和と当時の明朝皇帝の平等寛容精神の体現と象徴であり
同時に中国の当時の広い気持ちと世界性を持った見識を表しています。


なんだか政治臭くなってきました。

郑和之后不久,葡萄牙人、荷兰人、英国人相继来到了斯里兰卡,与郑和的平等互利、礼尚往来完全不同的是,这些殖民者不仅对斯里兰卡丰富的物产进行血腥掠夺,而且,逼迫斯里兰卡人民改信天主教、基督教,激起了斯里兰卡人民的仇恨与反抗。 

鄭和のあとまもなく、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が相次いでスリランカに来ますが鄭和の平等と相互利益の精神と礼儀とは完全に異なるのは,これら植民地主義者はスリランカの
豊富な物産に対して血眼になって略奪するだけでなく、
スリランカの人民にカトリックやプロテスタントに改信をせまり、人民の恨みと反抗を買った。
原文はこちら

もういいよ。わかったわかったって感じです。

そして裏読みすると
現在の中国の海外進出は純粋に友好と相互利益を求めたもので
覇権主義では絶対ないですよ。皆さんご心配なく。とこういいたいのでしょう。

政治臭いのは嫌いですからやめましょう。

ともかく
この鄭和さんの雄大な構想、偉大な業績と大きな心は尊敬に値します。
男の中の男ですね。

あ!男じゃなかった。宦官ですから。

でも男以上に男っぽい。憧れます。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-11 14:30 | 文化、歴史 | Comments(7)
2006年 05月 27日

「西太后」と現代中国

西太后―大清帝国最後の光芒
加藤 徹 / 中央公論新社
読了。

先日ご紹介した「漢文力」の著者、加藤徹氏の近著です。
中国の本って結構見かたに偏りがありがちで褒め称えたり、バッシングしたりいろいろですが
この方の本はバランスがとれてて読んでて気持ちがいい。
いろんなエピソードや風説も交えて読んでてあきさせません。
さらに学者さんにありがちな、まどろっこしさがなく、
ざっくばらんに話してくれるような感覚があります。

西太后といえば現代中国においては
近代中国100年の屈辱の歴史を作った諸悪の根源で評価は最悪です。
まあ彼女自身がどんな人物だったかはともかく
なぜ1人の女性が48年もの長いあいだ、衰退しつつあったとはいえ
まだ超大国であった大清帝国随一の権力者足りえたのか?
やはり歴史的に皇帝が君臨した中国は皇帝がカリスマ足り得ない時にも
カリスマを必要としてそれにたまたま選ばれたのが西太后だったんでしょう。

だって最初に権力を握ったとされるのが27歳ですって。
夫の咸豊帝が死んで実子の同治帝が即位したときです。
27歳っていったら数え年でしょうから、
この前千葉の選挙で勝った民主党のキャバクラ議員と一緒ですよ。
いくらなんでも自分の力では権力とれないでしょ。
周りで利用した奴らがたくさんいたはずです。

それにしても西太后、後宮に入ったのも選秀女というオーディションあがりなんです。
満州族のなかから美女、才女が集められて皇帝のお后探しです。
まさにシンデレラストーリー。当時18歳。
ミスコンで一位になったみたいなものです。
でも厳密には第4位当選。子供を産んで2位まで上昇。皇后はただ1人です。(東太后)
(ちなみに中国では西より東の方が上です。東の横綱が正横綱であるのと同じ論理です。)

27歳で権力を握ってから48年間ずっと大清帝国の中心でありつづけるのです。
今みたいにネットで情報が得られるわけでもないのですから
いったいどうやって統治したんでしょう。

まあ彼女の能力がどうあれ彼女がトップだった時期はほんとに激動の時代でした。
著者の話で面白いのはこの時期の大きな出来事は現代中国に投射されているんですって。
曰く西太后時代は現代中国のパイロットプラント。

洋務運動は今の経済発展、義和団の乱は文化大革命、変法新政は改革開放の
パイロットプラントだと。

特に洋務運動についての記述は面白かった。
阿片戦争に負けたあと1860年代から西洋文明を取り入れ急速に発展します。
そのスピードは明治維新をしのぐほどだったと。
キャッチフレーズは和魂洋才ならぬ中体西用。
“中学为体,西学为用”,希望利用先进的技术维护封建统治,改革不触动封建制度,被认为是失败的根本原因。(中文wikipedia)

「中国の伝統的な学術を基礎として西洋の学問を用いる」つまり先進技術を利用して封建体制を
維持し、封建制度の改革には手を触れない。このことが失敗の原因とみなされている。

権力維持のために西洋技術を取り入れたのです。明治の日本は旧幕府は倒れたjoあとで
新政府はなんのためらいもなく西洋技術を受け入れたが清国はそうではなかった。
日清戦争の時の清国海軍はセーラー服に辮髪だったんですって。
悪趣味な三つ編みお下げの女子高校生に扮したオカマチャンのようです。

この封建制度のところを社会主義と入れ替えるとなんか現代と符合します。
社会主義市場経済。
社会主義を基礎として市場経済を推し進める。

この洋務運動は約30年で終わりました。
いまの改革開放は1978に始まりました。もうすぐ30年。
北京五輪の後かな?

洋務運動の終わりは日清戦争でした。
こんどは米中かな?

いやいやこんな不謹慎なことを言ってはいけません。

ともかくこの本は面白かった。

以上
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by zhuangyuan | 2006-05-27 00:26 | 中国関連DVD、本 | Comments(6)