中華 状元への道

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2006年 06月 26日

第二次簡体字化計画

銀座に台湾が!という記事の中で繁体字について触れました。
記事のコメントの中で、
我がブログの一二を争う中国通の老同学である、かめ様、dashiさまが第二次簡体字化計画というものが存在したとのお話をしていただきました。

興味があったので中国サイトで検索してみました。
よくまとまったサイトを見つけましたのでご興味のある方はご覧下さい。
不成功的“二简字”

こちらには当時公布された簡体字化草案の一覧表が載っていますので
かめ様、dashiさまも若かりし学習の日々に戻ってご覧下さい。

確かにご紹介のとおり、 雪→ヨ、街→〒、私→ム というようなやりすぎのものもあります。
これならいっそのこと全部カタカナにしてまえって感じです。

dashiさまのおっしゃるがごとく表意文字の特質を無くすような試みです。
韓国語やベトナム語はもともと漢字圏であり、もとは漢字を使っていましたが
中国からの文化的独立を意図して、韓国は表音文字ハングルを開発し、ベトナムはアルファベットを用いました。

中国も最終的には漢字を廃止してpinyin化しようとしたこともあるとのことですが
そうなっていたら多くの漢語表現が消滅したことでしょう。

ともかく第二次簡体字化も廃案に追い込まれ、pinyin化も夢想に終わったのですが
この第二次簡体字化は影響が大きかったらしいのです。

なぜなら10年近くも使用することが推奨されたからです。
1977年12月に発表され1986年まで使用されたのです。

人民日報は発表翌日から使用を開始して、学校教育などでも使用されたとのこと。

少し記事を引用します。
由于曾经在社会上“二简字”被使用了一段时间,而且简单易写,废止后的“二简字”有时会出现在非公开的需要快速书写的文本如笔记、病历等,在公共场所也影响着现在的社会生活,市场、商场甚至路牌等重要场所都有出现二简字。比如:市场中“鸡蛋”经常被写作“鸡旦”,公共场所“停车”被写作“仃车”。

かつて社会において「第二次簡体字」が一定期間使用されており、
また簡単に書くことが出来るため、廃止後も「第二次簡体字」は時々、
ノートや病歴など速記する必要がある場合に非公開に出現する。
公共の場においても現代生活、市場、デパートまたは標識などの
重要な場所に影響を及ぼし第二次簡体字が出現している。
たとえば市場では“鸡蛋”(たまご)を“鸡旦”と書き,公共の場で“停车”(停車)を“仃车”
とよく書かれている。


10年も使ってからダメだといわれても遅いですよね。
でもそのころは現代にデジタル社会が出現しみんな手書きで文章を書かずに
ワープロを用いることなんか思いもよらなかったでしょう。

おかげで私でも繁体字かけますよ。PC上では。
ここまで進んだからにはもう二度とこの計画は持ち上がらないでしょう。

ところで繁体字で思い出しましたが
私の名前も簡体字であることを発見しショックです。
私の下の名前は 「岳」 (ガク)といいます。
意味は高い山のことです。(例:八ヶ岳)
昔は「嶽」 と書いたのです。富嶽百景といいますよね。

以前からこの「岳」という字は
なんで岳父(妻の父親の意)とかいう言葉に使うのだろうと思ってましたが
ちがう言葉で字だけ拝借したんですね、「山」の意味のほうは。

なんか略字だと軽く扱われたような気がします。

最後に余談ですが
世の中の鉄鋼会社のホームページを見て、会社名の「鉄」の字をご覧下さい。
「鐵」 となっていますでしょう。

なぜでしょう?

「鉄」 は「金を失う」と書くので営利企業として縁起がわるいので
旧字体を使うのです。へえー、へえー。

これも簡体字の失敗例ですね。日本版ですけど。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-26 22:38 | 文化、歴史 | Comments(7)
2006年 06月 24日

冬虫夏草 不老長寿の妙薬

先日、中国帰りの友人にお土産として煙草をもらいました。
その名は「冬虫夏草」

漢方で有名な冬虫夏草の煙草なんです。非売品だそうです。
名前だけそうなのか、本当に入っているのかわかりませんが
吸う前から健康になった気がします。

この煙草を製造しているのは「内蒙古昆明巻煙有限責任公司」
なんで内蒙古と昆明がくっついちゃうのか?
多分、内蒙古の会社の昆明工場なんでしょう。

この冬虫夏草は海抜3500-4000メートル地帯にしか生息しないらしく
雲南では取れるらしいですからそこで作っているのでしょう。

じゃあ、この冬虫夏草とはなんなんだとお思いの方にちょっと解説。

冬虫夏草とは、冬に虫だったものが夏に草になってしまう世にも不思議な生き物。
と昔は信じられていました。
実際は虫に寄生した菌類が虫の内臓を食いつくし、体を突き破って草が生えてくる
世にも恐ろしい生物です。

虫子将卵产于草丛的花叶上,随叶片落到地面。经过一个月左右孵化变成幼虫,便钻入潮湿松软的土层。土层里有一种虫草真菌的子囊孢子,它只侵袭那些肥壮、发育良好的幼虫。幼虫受到孢子侵袭后钻向地面浅层,孢子在幼虫体内生长,幼虫的内脏就慢慢消失了,体内变成充满菌丝的一个躯壳,埋藏在土层里。经过一个冬天,到第二年春天来临,菌丝开始生长,到夏天时长出地面,长成一根小草,这样,幼虫的躯壳与小草共同组成了一个完整的“冬虫夏草”。

虫は卵を草叢の花葉の上に産みますが、葉っぱは地面に落ちます。
一ヶ月くらい後、孵化して幼虫になり湿った軟らかい土の中にもぐります。
土のなかには虫草真菌の胞子があり、それは太った逞しい、発育良好な幼虫に侵入します。
幼虫は胞子が入ったあと、地面の浅い層に向かい、胞子は体内で成長し、
幼虫の内臓はゆっくりと失われていき、体は菌糸が充満した殻になり、土中に埋蔵されます。
冬を経て、春になると菌は生長し、夏になると地面に顔を出し、小さな草になり
幼虫の殻と小さな草が組み合わさり、完全な冬虫夏草となります。

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おそろしい菌です。
人間にも寄生するような別種が突然変異で誕生しないとも限らない。
昨天人今天草なんてのができるかも。
前に桂枝雀の落語で頭から木が生えるのがありました。
あんな感じかな?
朝、虫になってたらカフカですね。

とにかくの虫草、不老長寿に効くらしいのです。
昔から中国では重宝がられていて、始皇帝も飲んでたんですって。
でもこの手のものはやはり希少価値があります。
いいものは一キロ100万円ですって。
一キロで何年長生きできるか知りませんけど。
生きる権利も金次第。

最近では人口培養も盛んらしい。
でもこんなものがたくさんできてみんなが飲んだら
世界の人口爆発は止まらずに超老人社会がやってくる。

未来においてみんなが手に届くようになったら
ご禁制がしかれるでしょう。
そして党幹部だけが秘密裏に食す。

なんてこんなことを書くとまた怒られますからこの辺でやめます。
もっと詳しく知りたい方はこちら

写真が見たい方はこちら

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-24 21:35 | 文化、歴史 | Comments(6)
2006年 06月 17日

銀座に台湾が!

昨日、銀座のど真ん中で台湾火鍋を食べてきました。
「しゃぶしゃぶ(台湾風)香味」といいまして銀座松坂屋のとなりのビルの地下にあります。

新橋にも姉妹店の台湾料理屋「香味」という店があり
たまにこちらの店では1人でランチを食べることがあります。
こちらで食べるのはいつも同じで排骨飯(パーコー飯)。なんか本場っぽい味で
気に入っています。付け合せで出てくる漬物もうまい。

でその新橋の店に雑誌の切り抜きが貼ってあり
銀座の姉妹店のしゃぶしゃぶ(台湾風)がランキングの一位になったと書いてあり気になっていました。

そこで昨日は高校時代の同級生と飲む機会があり行って見ました。
地下に下りて店に入るとそこは本場台湾!
といっても私、台湾は一度しか行ったことがありません。
でもなんか本場っぽい雰囲気を漂わせています。

しゃぶしゃぶのコースを注文し、火鍋はなんか羊肉の方が正統のような気がしましたので
肉は牛と羊を半分づつにしてもらいました。

カウンターになっている座席に一人一人に鍋がセットされており
出し汁も薬味がたくさん入ってて本場っぽい。

って説明していくのも面倒なので
おいしそうな写真がたくさんのっているブログを見つけたのでこちらををごらんださい。しずる!写真グルメガイド

味はというと本場っぽい味で気に入りました。
特に味噌ダレがいい味だしてました。

店でもらってきた「台湾新聞 6月号」に紹介記事がありましたので
引用してみます。

吃火鍋料不能少沾了沙茶醬,而在醬裹打進一粒金澄的蛋黃,
攪拌出醇厚香辣,風味絕佳的佐料,更是臺灣人獨門的吃法。

しゃぶしゃぶを食べる時はピーナッツタレを沢山つけて食べるべし、
そしてタレ中に透きとおった金色に輝く卵黄をいれて
混ぜあわせると濃厚な辛味が香り出し、
この絶品の風味の調味料、これこそ台湾人秘伝の食べ方である。


どうですか?
うまそうでしょ!
よだれ出てきました。
‘香味’的菜單別出新裁,在店裡吃火鍋配飯,
配的是不是普通的白飯,而是臺灣地道的排骨飯或豬腳飯,
老闆許泰宗設計的菜單就像設計一件藝術品一般,
從主菜,配菜到醬料,甚至飯後的甜點等,都非常考究,
堅持呈現臺灣式‘香味’的美味。

「香味」のメニューは新しい工夫を凝らしている。店でしゃぶしゃぶのおともにご飯を出す
それは普通の白いご飯でなく、台湾地元のパーコー飯か豚足飯です。
社長の許泰宗が考え出すメニューは芸術作品のように
主となる野菜から、付け合せ野菜、タレまで、さらには食後のデザートにいたるまで
非常によく研究しており、台湾式の「香味」の美味さを引き出している。


絶賛ですね。これを書いてるのはお友達でしょうか?
でもほんとに美味かったですよ。

最後の麺もいいし、デザートのライチも新鮮だった。

ところでこの「台湾新聞 6月号」の一面のトップ記事はなんだと思いますか?

「王監督 66歳了」
でした。

さすが台湾人の夢のスーパースター。
ところで軟體銀行ってなんだかわかります?

ソフトバンクですって。

*繁体字は知識がないし、辞書を引けないので簡単な文でも訳すのが大変でした。
簡体字の「老板」が「老闆」なんですから。
もともとはこっちだったんでしょうけど。
なんで「板」になっちゃったんでしょうか。
「老闆」には資本主義の香りがしたから
新中国では抹殺したのでしょうか。

発音がいっしょだからという理由で別の字に置き換えるケースはほかにもありますが
意味がわからなくなる変更は後世のためにならないと思います。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-17 22:58 | | Comments(9)
2006年 06月 12日

回想 オーストラリアで武者修行(中文)

1992年,在大学四年级的我碰到困难,就是我找不到毕业后的工作。
当时日本的泡沫经济已经破坏了。公司招聘的人数也一下子减少了。
但是没有失败过,什么事情都乐观的学生时代的我毫无想象那样的情况。
其实看看前几年容易找到工作的前辈们的我是自高自大的。
我决定报名的公司只是产业内第一名或者第二名。

但结果很严峻,我每次达到最后一次面试,不过什么公司都不给录用内定。
我在家里等待通知结果的电话,电话铃只在我的耳朵里响几次,但现实的电话没响了。

七月末朋友们还在找工作的时候,我早就放弃了在第二年工作打算。
我决定了请假后为了再锻炼自己去澳大利亚顺便学习英语。
然后不上课打工,匆匆忙忙存旅费。

十二月获得可能一边工作一边旅行的签证Working holiday visa,出发了。
在悉尼我先找了语言学校,花了一半的钱,逼自己。一个月的上课后剩余的钱很少了。
所以我不得不找工作。
我不想和日本人一起打工,想在澳大利亚的老百姓之间打工。
因为我觉得这样的环境为学习英文非常好,而且能体会外国的文化。

我先去了职业介绍所。但招人广告非常少因为那时澳大利亚的景气很不好。
失业率也很高。当地人也找不到工作,那么英文能力差的外国人当然找不到。
外国人也可以报名的工作是洗盘子,砌砖那样的体力劳动。
在日本做过体力劳动的我敢做,但是工资非常少。
那样低工资的话,生活没问题,不过不能存旅游费。所以我放弃了体力劳动。

开始找工作的第二周,我去鱼市找工作。
因为在宿舍的朋友们告诉我在鱼市里好多亚洲人工作着的消息。
在鱼市我跟各个市场的老板问问有没有招人。
但每个老板回答是一样的。没有招人。
鱼市的繁期是12月,就是圣诞节期间。我在1月份找工作,过了圣诞节的鱼市非常闲。
我又找不到工作了。

我烦闷着几天才意识到了我的长处。在外国有用的我的长处还是日语,只是日语。
多亏在澳大利亚日本旅游者很多。我的主意是用日语帮助当地的礼物店卖东西给日本人。

第二天早上我站在码头,从海岸线到市中心的路上,我访问每个礼物店问问有没有招人。
我跟每个老板用英文说,:“我是日本的学生,我会说日语,这里日本旅行者很多,
特别是蜜月旅行。他们为纪念买东西很多,我知道他们喜欢什么。雇佣我就有用”

 但一月份的市场还是冷清,半天走一走也找不到工作。
功夫不负有心人,老天爷给我恩赐,下午我终于找到了工作。
那是一个时尚皮革茄克店,那店的像意大利人那样漂亮的女老板决定雇佣我。
我非常高兴,欢欣雀跃了。

 但是我的苦恼就这时开始了。
那个女老板是大老板的爱人,大老板是黎巴嫩人。
他使用人的办法很厉害。我在工作时间里午饭也不能吃什么的。

以后的事情,请参照我以前写的文章。
ラビットのように走る男


完。

**添削大歓迎です!!


日本語訳

1992年、大学四年の時、私は困難にぶつかりました。
就職活動に失敗したのです。
当時日本はバブル経済が崩壊し企業の求人数が急に減っていました。
しかし失敗をしらない、何事も楽観主義な学生時代の私はそんなことは
想像もしませんでした。
実際、近年、先輩たちが楽楽と仕事を見つけるのを見ていた
私には驕りがありました。
応募しようと決心したのは業界一位、二位の企業ばかりでした。

 しかし結果は厳しいものとなりました。
毎回最終面接までは進むのですがどこの会社も内定をくれません。
私は家で内定決定を告げる電話を待っていましたが
電話のベルは私の耳の中で鳴るのみで、ついには実際の
電話は鳴りませんでした。

 7月末友人たちが就職活動を続けている時、私は早くも翌年の
就職をあきらめました。
大学を休み、自分を鍛えるためにオーストラリアに行き
ついでに英語も習得しようと決心しました。
その後、授業には出席せずアルバイトをして
急いで旅費を貯めました。

 12月働きながら旅行ができるワーキングホリデイビザを
取得し出発しました。
シドニーではまず、語学学校を探し、半分の金を使い
自分を追い込みました。一ヶ月の授業の後、残った金はわずかでした。
ゆえに仕事を探さなくてはなりません。
私は日本人と一緒に働きたくなく、
オーストラリアの一般の人に混じって働きたかった。
そうすれば英語も上達し、外国文化も知ることが出来ると
思ったからです。

まず最初に職業安定所に行きました。
しかし求人広告は非常に少なかった。
当時のオーストラリアは不景気で失業率も高かったからです。
外国人でも応募できるのは皿洗いやレンガ積みのような
肉体労働だけでした。
日本でも肉体労働の経験があったので厭わなかったですが
なにで賃金が安かった。
それでは生活は出来ても旅行費用は貯まりません。
よって肉体労働はあきらめました。

仕事探しの二週目、私は魚市場に行きました。
宿舎の友達が魚市場でアジア人がたくさん働いている
ことを教えてくれたからです。
私は魚市場の店店を回り、親方に職がないか尋ねました。
しかし皆答えは同じ。職はないよ。
魚市場の繁忙期は12月のクリスマスシーズンなのです。
クリスマスを過ぎた1月はとても暇なのです。
また仕事が見つかりませんでした。

 数日頭を悩ましてやっと気付きました。
外国で役に立つ私の長所はやっぱり日本語なんです。
日本語しかないんです。
幸いオーストラリアは日本人観光客がとても多かった。
私のアイデアは現地の土産物店で日本人旅行者にお土産を
売ることでした。

 翌日早朝、私は港の桟橋に立ち、海岸線から市の中心に向かう道で
全ての土産物店に職がないか尋ねました。
私は店主に英語でアピールしました。
「私は日本人学生です。そして日本語を話せます。
ここには日本人観光客が多いしハネムーンが特に多いです。
彼らは記念にお土産を沢山買います。
私は彼らの好みがわかるので私を雇ったらすぐに役立ちますよ。」

 しかしやっぱり一月の市場は閑散としています。
半日歩いても仕事は見つかりません。
しかし神様は見ていてくれるものです。
午後ついに仕事を見つけました。
それはレザージャケットショップでした。
その店のイタリア人風の美人店長が雇ってくれたのです。
わたしはほんとに嬉しくて飛び上がりたい気分だった。

 しかし私の苦労はここから始まったのです。
その女性店長は社長の奥さんでしたが社長はレバノン人んでした。
彼の人使いがメチャメチャ荒い。
仕事中は昼食もとらせてくれません。

その後の顛末は以前書いた次の文章を参照してください。

ラビットのように走る男



以上
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by zhuangyuan | 2006-06-12 22:11 | 中文練習 | Comments(21)
2006年 06月 11日

宦官英雄 鄭和

宦官ブログとしての第一歩は
偉大なる英雄、鄭和からはじめましょう。
明の時代に大旅団を率いて7回も大航海を決行した英雄です。
*宦官を知らないかたは宦官物語参照してください。

鄭和はまたの名を三保太監といいます。この太監というのは宦官の通称です。
ただ自ら進んでなったわけではありません。
明の全国統一の過程に当時雲南にいた12歳の色目人鄭和は美少年だったため
戦利品としてとられ去勢され朝廷に送られます。

そこで仕えたのが後の永楽帝、燕王朱棣。
これがラッキーでした永楽帝は洪武帝が宦官の登用を禁じたのに反して
どんどん優秀な宦官を登用したそうです。
そこで鄭和は宦官トップにのぼりつめたんです。

そこで永楽帝は大船団を率いて大航海をすることを計画します。
なんのために?
諸説ありますが有力なのは
《明史·郑和传》中记曰:“成祖疑惠帝亡海外,欲觅踪迹,且欲耀兵异域,示中国富强。”

「明史、鄭和伝」の中に記されているのは「成祖(永楽帝)は恵帝(建文帝)が海外逃亡したことを
疑い、捜索したいと考え、且つ軍隊の威勢を異国に示し、中国の力を誇示しようとした。


永楽帝は3代目皇帝ですが
甥である2代目皇帝建文帝を倒して政権をとります。
でも彼がいなくなっちゃった。彼を探し出すために大船団を派遣した。

その船団の団長に抜擢されたのが鄭和。
なぜか?
国際性を持ち合わせた大人物だったから。

陳舜臣の中国の歴史(平凡社 全15巻)の第11巻によると
鄭和は色目人。西域に住む人たちのことでイランかトルコ人のような感じでしょう。
しかも父親はイスラム教徒でメッカ巡礼も経験しており、
子供のときからこの冒険譚を聞かされて育ったんですって。
またペルシャ語も話せたし、コーラン読むからアラビア語も出来る。
中国にいますから四書五経も読みこなしたと言いますからすごいです。

しかも美男子で体もデカイ。でもチ〇ポはない。
こんな国際感覚豊かな知識人は見つけようとしたってなかなかいないでしょう。
なるべくしてなったって感じでしょう。

そこで7回の大航海に出かけるのですが
彼の人柄のおかげで大きな戦争もなく、友好的な交流ができたということです。

でも実際は他国にしてみれば戦いたくてもとても戦える相手ではない。
馬鹿でかい船と大多数の船団と兵士を率いていったんです。

本によっていろんな数が載ってますが
208隻の船と乗組員37800人。(62隻,27800人との説もあり)
いずれにせよすごい数字。

船のデカさ度肝を抜きます。
最大的长44丈4尺,宽18丈,是當時世界上最大的海船,折合現今長度為151.18米,寬61.6米。船有四层,船上9桅可掛12張帆,錨重有幾千斤,要動用二百人才能啟航,一艘船可容納有千人。

最大長さ44.4丈、幅18丈、で投じの世界最大で今の長さに換算すると
151.18m、幅61.6m。船は4層にわかれ9つのマストに12の帆がかかり、
錨は数千斤で、200人かけてやっと出航でき、一艘あたり千人収容できる。


重さは8000トン級だったそうです。その93年後のバスコダガマの航海時の舟は120トン
だったそうですからいかに巨大かわかります。

こんな船団が突然やってきたら
「ごめんなさい。何でも出しますから許してください。」ってなっちゃいますよね。

日本なんかは幕末に黒船4隻で震え上がってしまうんですから。
ちなみに黒船の最大長さは78mです。ちっちゃいちっちゃい。
全部に合計1000人くらいのってたらしい。幕末の黒船

これが来ただけで
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
となっちゃうわけですから。

で鄭和は今の国名でいうと
ベトナム、タイ、インドネシア、スリランカ、インド、イエメン、サウジアラビア
ソマリア、ケニアなどに足跡を残すのです。なんか興奮してきますね。このスケール。航海図

でも鄭和も友好的な態度をとおしたらしく
スリランカで発見された石碑には三ヶ国語でこんなことがかかれていたそうです。
これも陳舜臣さんの本に載ってました。
私は中国語のサイトから引用しましょう。

这块石碑引人瞩目之处,在于碑文分别用中文、泰米尔文、波斯文三种文字写成。中文的碑文说的是,郑和等受明代皇帝派遣,下西洋时来到斯里兰卡巡礼圣迹,布施香礼,以竖碑记之的情况,
(中略)
泰米尔文的碑文表示的是对南印度泰米尔人信奉的婆罗门教保护神毗瑟奴的敬献;波斯文的碑文则表示对伊斯兰教信奉的真主给予敬仰之情

この石碑が注目されるのは漢語とタミル語、ペルシャ語の三種の文字で碑文が書かれていることです。
漢語で書かれているのは、鄭和が明の皇帝により派遣され、西洋に出てスリランカに着き
聖跡を巡礼し、お布施して碑を建立した様子が書かれている。
タミル語の部分は南インドのタミル人が信奉するポロメンの守護神ピサヌへの献身を記し、
ペルシャ語はイスラム教のアラーへの敬愛の念を記してある。


この宗教への寛容さに鄭和の懐の深さを感じます。
異民族が来て石碑建てて示威的態度に出ると思いきや地元の神に祈る碑をたてる。
粋な人です。

このサイトでは次のように続いていきます。

这块石碑是郑和以及当时明朝皇帝平等宽容精神的体现和象征,同时也表明中国当时具有极为宽广的胸怀和世界性的眼光。 

この石碑は鄭和と当時の明朝皇帝の平等寛容精神の体現と象徴であり
同時に中国の当時の広い気持ちと世界性を持った見識を表しています。


なんだか政治臭くなってきました。

郑和之后不久,葡萄牙人、荷兰人、英国人相继来到了斯里兰卡,与郑和的平等互利、礼尚往来完全不同的是,这些殖民者不仅对斯里兰卡丰富的物产进行血腥掠夺,而且,逼迫斯里兰卡人民改信天主教、基督教,激起了斯里兰卡人民的仇恨与反抗。 

鄭和のあとまもなく、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が相次いでスリランカに来ますが鄭和の平等と相互利益の精神と礼儀とは完全に異なるのは,これら植民地主義者はスリランカの
豊富な物産に対して血眼になって略奪するだけでなく、
スリランカの人民にカトリックやプロテスタントに改信をせまり、人民の恨みと反抗を買った。
原文はこちら

もういいよ。わかったわかったって感じです。

そして裏読みすると
現在の中国の海外進出は純粋に友好と相互利益を求めたもので
覇権主義では絶対ないですよ。皆さんご心配なく。とこういいたいのでしょう。

政治臭いのは嫌いですからやめましょう。

ともかく
この鄭和さんの雄大な構想、偉大な業績と大きな心は尊敬に値します。
男の中の男ですね。

あ!男じゃなかった。宦官ですから。

でも男以上に男っぽい。憧れます。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-11 14:30 | 文化、歴史 | Comments(7)
2006年 06月 11日

宦官ブログ

5月からexblogではネームカードという機能が加わり、
ブログへのアクセス解析が出来るようになりました。

詳しく解析は出来ませんが大まかな把握が出来ます。
ユニークユーザー数ではなく、のべ閲覧数がわかります。

5月に「状元への道」のページビューは5,045アクセスでした。
皆様いつもありがとうございます。

訪問者のリンク元ランキングを見ると

1位:yahoo検索             1368アクセス
2位:google(.comと.co.jpを含む)  196アクセス

この間、「google 既存のビジネスを破壊する」(文春新書)を読み
googleの凄さを改めて認識したのですが、日本ではyahooがまだ頑張っているようです。
もしかしたらgoogleのアルゴリズムでは評価されてないのかもしれませんけど。

ところでここからが本題。

検索キーワードランキングを見てビックリしました。

第一位はなんと

「宦官」でした!!

230回も「宦官」というキーワードからアクセスして頂いてました。
一度だけ宦官物語という書評を書いただけなんですけど。
(ちなみに2位のキーワードは回鍋肉(220アクセス)こちらも不思議。)

いかに宦官について書くサイトが少ないかがよくわかりました。

でもここで不思議なことが。
6月に入ってから「宦官」でアクセスしていただいた方がパッと消えました。
いまのところゼロです。

なぜか?

やっぱり「google」という本が語るように検索サイトの威力なのです。
ここではyahoo検索の力ということになりますが。

5月半ばに「宦官」で検索してサイトを訪れる方が多いことに気付き
yahooで検索してみたところ、
ワアオ!
なんとトップページの3番目くらいに「状元への道」がランクされていました!!

中国語学習サイトのはずなのに。

そして本日、
6月に宦官アクセス数が減っていること原因を調べるべく再度yahoo検索しました。
すると宦官というキーワードではどこに見つけられず(かなり下位に落ちたんでしょう)

「宦官物語」というでさえトップページから4ページ目の36番目にしか入ってません。
yahooのアルゴリズムがどうなっているのかわかりませんが
突然宦官サイトが増えたのでしょうか。
検索して4ページ目まで目を通す方はあまりいませんでしょうから
もう存在が消えたのと同じです。

先ほどの「google」というでいうグーグル八分と同じ疎外感です。

でもあたりまえといえばあたりまえ
宦官で検索してたどり着いたけれど
宦官については一ページしか載っていない。
これではリピーターになっていただけませんよね。

そこで再度yahoo検索でトップページに載り
アクセス数を増やすため
歴代の宦官を順次紹介いたします。

宦官ブログ ナンバーワンになるために!
請うご期待!

でも宦官ブログってちょっとかっこ悪い。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-11 09:04 | 生活 | Comments(2)
2006年 06月 05日

中国語で学ぶ World Cup

もうすぐワールドカップ開幕ですが
私は小学校時代よりサッカーをやっていました。
昔は雑誌などを毎週買っており詳しかったのですが
最近では昨今のサッカー事情にほとんどついていけていません。

そこで開幕までに俄か知識を蓄えてワールドカップ観戦を楽しもうと考えています。
ただ中国語のお勉強もしなければなりません。
そこで折衷案を思いつきました。

中国語サイトでワールドカップ研究をしちゃおう!

まずは日本代表から中村俊輔をご紹介します。新浪2006世界杯
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これが結構面白い。
でも外来語が多くて訳すのがつらいです。

人物关键词(パーソナル キーワード)から気になる部分を抜粋します。

①米兰双雄头疼他 (ミランの両雄が彼にうんざりしている)

  不过中村俊辅的国脚之路并不顺利,在2002年世界杯之前,他被主帅特鲁西埃以身体对抗不行为借口拒与门外。这个他造成了巨大的打击,同时也激励他成为向海外发展,重新证明自己的决心。7月,他加盟意甲雷吉纳队,在三年的意甲上,中村俊辅多次利用任意球制造威胁,米兰双雄都曾因为他的任意球吃过苦头。

 しかし俊輔の国内サッカー人生は順調ではなかった。2002年W杯の前彼は監督のトルシエに(欧米人にたいする)身体対抗能力がないという理由で代表をはずされた。このことは大きな
打撃になったが、同時に海外雄飛に向けての激励ともなり、決心を改めて確認した。
7月彼はセリエAのレッジーナに加盟し、三年のセリエA経験のなかでFKを利用し多くの脅威を
創出した。ミランの両雄は彼のせいで苦汁をなめた。


*ミランにトルシエ、レッジーナ。外来語はつらい。

②与杜威曾是队友(かつて杜威とチームメートだった)

  在雷吉纳闯荡了三年以后,中村俊辅拒绝了西甲的邀请,来到了苏格兰超级联赛巨无霸凯尔特人队效力,在这里他遇到了中国后卫杜威。杜威对于中村俊辅的努力和敬业非常赞叹,同时也感慨日本人请了庞大的训练师和私人医生来维持自己的状态。在杜威苦涩的处子秀以后,中村在更衣室安慰他,并希望球迷媒体理解杜威。


レッジーナでの三年間の異郷生活の後、俊輔はリーガ・エスパニョーラの誘いを断わり
スコットランドのプレミアリーグの強豪セルティックに来て貢献した。そこでは中国のディフェンス杜威と出会った。杜威は俊輔の努力とプロ意識を賞賛し、同時に日本人は非常に多くのトレーナーや
ドクターを雇い自分の体調維持をしていることに感慨をもった。
杜威の苦しかったデビュー以降、中村は更衣室で彼を慰め、ファンやマスコミが杜威を理解するよう望んだ。


俊輔は中国人民の友だったわけです。どうりで評価が高い。
私は杜威という選手を知りません。中国国内では英雄なのかも。

俊輔のチーム、セルティックとは凯尔特人=ケルト人の意味でした。
ではそもそもケルトって言葉は何語の発音なんでしょうか?ケルト語かな?
英語だとセルト?

日本では外来語はカタカナなので意味が不明であるものが
中国語の漢字表記でみると意味がわかったりすることが結構ありますね。

处子秀という言葉は辞書になく苦労しました。
サッカーだけに使うデビューの意味みたい。秀xiuはシュートとかけたのかな。
处子は処女の意。

 
③逼中田英寿让位(中田の譲らせた)

  在俱乐部的成功也帮助中村俊辅在国家队取得了更好的位置,在济科的战术中,中村俊辅在联合会杯中正式从中田英寿那里接过了日本队中场指挥官的重任,牢骚满腹的中田只好改踢后腰。在联合会杯中,中村俊辅一脚精彩的远射打破了巴西队迪达的球门。

  如今的中村俊辅,当之无愧的成为日本头号球星。


クラブでの成功は代表チームでの俊輔の位置向上の助けとなり
ジーコの戦術上で俊輔はコンフェデ杯で中田英寿から中盤の指揮官の重責を引き継いだ。
不満たらたらの中田はディフェンシブハーフに変わるしかなかった。
コンフェデ杯期間中、中村は素晴らしいロングシュートでブラジルのジーダのゴールを破った。

今現在、中村俊輔は栄誉に恥じない日本のトッププレーヤーとなった。


中国では中田より俊輔が人気があるようです。
しかし「济科jike」ジーコはもっといい漢字ないのかな?

**この選手を調べてくれ!というリクエスト歓迎です。(日本以外希望)


以上
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by zhuangyuan | 2006-06-05 23:10 | 時事 | Comments(12)
2006年 06月 04日

マオチューシ (毛主席)

昨日は子供たちの遠足に行ってまいりました。
集合場所までは車で向かったのですが
車に乗るなり六歳の娘と二歳の息子が叫びました。

「マオチューシ!!」

中国語に縁のない方はまったく意味がわからないと思いますが
マオチューシとは毛主席(Maozhuxi)のことです。つまり毛沢東。

なぜ「マオチューシ」などと叫ぶかというと
「マオチューシのCDをかけてくれ」という意味なのです。

私の車の中にあるCDは子供の歌か中国の歌がほとんどです。
私は子供の歌が聞きたくありませんから
なるべく中国のCDをかけ、子供たちに中国の歌に慣れさせようと
英才教育?をほどこして参りました。

その結果、洗脳の甲斐あり、子供たちの好きな歌ランキングに
マオチューシの歌が入ったのです。

マオチューシの歌とは
私が北京で中国語のお勉強をしたときに買って来た
「2002年的第一場雪」(刀郎)のなかの一曲「萨拉姆毛主席」(Salamu Maozhuxi 親愛なる毛主席)
興味のあるかたはダウンロードして聴いてみて下さい。
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新疆ウイグル自治区から青年が北京まで毛沢東に会いにやってくる歌です。
会うといってもおそらくは国慶節かなにかで天安門で手を振る毛沢東を拝む程度でしょうけど。
昔はやった歌のリメイクだそうですが
新疆っぽい雰囲気で軽快なリズムのつい歌い出しちゃう歌です。


毛主席呀毛主席耶                 毛主席、毛主席
日夜都在想念你                  日夜あなたを想ってます
我要勤生产多卖力                 私は勤勉に生産に励み努力を惜しみまず
把那盘缠来攒起耶                 旅費を貯めてますよ
有一天我去看你我就说毛主席耶来来来    いつかあなたに会いに行きます、毛主席 来来来 (ここうまく訳せません。誰かお願いします。)
普天下的人民都爱你耶               天下の人民はみんなあなたを愛してます
萨拉姆毛主席毛主席呀毛主席耶         親愛なる毛主席 毛主席 毛主席


ってこんな感じです。
ロック調の乗りのなかにも政治性がたっぷりです。
新疆ウイグルまでれっきとした中国ですよ。
新疆の人民も毛主席を愛してます。
こういった歌がリメイクされ流行するのもウイグル独立運動と関係があるのかな。

まあそれはともかく子供たちは意味もわからず
CDにあわせて歌ってます。

「普天下的人民都爱你耶  
萨拉姆毛主席♪」

「プテンシャディ レンミン ドウアイニ~♪
サーラーム マオチューシ~ ♪♪」

こんな感じです。

最近は二歳の息子もうまく歌います。
この間なんか昼寝の前に眠りに落ちる前にうわごとのように歌っていました。
「アア~♪ サーラーム マオチューシ♪」

二人とも意味はまったくわかってませんが
マオチューシが中国で一番偉い人だと知っています。

去年のある祝日に娘に聞きました。
「今日は何の日か知ってる?」

「天皇さまの誕生日!」

「おおすごい!ところで天皇さまって誰?」

「愛子さまのおじいちゃんでしょ!」

「まあそういう言い方もあるけど、日本で一番偉い人だよ。」

「じゃあ日本のマオチューシだ!」

「.......」 なんと言ったらいいのやら。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-04 20:51 | 生活 | Comments(15)
2006年 06月 03日

人に歴史あり(北京ダックを食べながら)

先日地元の中国語教室のクラスの飲み会で六本木で北京ダックを食べてきました。
参加者は先生2人、生徒3人。
d0018375_20383622.jpg
中国茶房8
カジュアルな本場っぽい雰囲気で美味かった。
周りを見渡すと超満員。
半分は外人だった。中国人だけでなく、場所柄白人も一杯でした。

 幹事の先生曰く
「この店は中国大使館も忘年会で貸しきるくらいおいしいお店だよ」とのこと

「ただ正式の北京ダックは一羽あたり96枚しか切らないのだが
ここはその辺は適当である。」と薀蓄を語っていました。さすが北京人!

そこでちょっと調べて見るとほんとでした。
一隻烤鴨在技巧嫻熟的師博手裡
可以片成整整一百二十片
第一個步驟先片出二十四片鴨皮
吃的人汁麼都不用包,沾點白糖送入囗中
滿嘴酥香直透肺腑
鴨皮吃完,連皮帶肉的九十六片正好片完上桌

一羽の北京ダックは技術の成熟した料理人の手で
ちょうど120枚に分けられる
まず初めに切った24片の皮は
何も巻かずに砂糖につけて口に入れると
口の中の芳醇な香りが肺腑までしみわたる
鴨皮を食べたら肉のついた96枚がちょうどテーブル出来上がっています。

用薄餅夾上一片
加一段山東人蔥白,一段小黃瓜條
蘸些六必居醬園特製的甜麵醬
吃起來清爽不膩,其味無窮

それを薄餅ではさみ
山東人のネギとキュウリの千切りを加え
六必居醬園特製の甘い味噌たれを少しばかりつけ
食べるとさっぱりしていて、まったくあきません
その味は格別です。


おおうまそー!また食べたくなってきた。

 生徒の1人は年配の男性で御年76歳。

「状元同学能喝酒吗?」(状元くんはお酒飲めるくちかい?)

「私はokですが、先日心臓が悪いとかおっしゃっていませんでした?」

「没关系,我每天喝酒。一边喝酒,一边吃药!让我们喝茅台酒吧!」
(だいじょうぶ、毎日飲んでますから。飲みながら、薬飲んでますから。マオタイ飲もう!)

ということで白酒を少々お付き合いしつつこの方の経歴を聞いてびっくり。
子供のころ戦前の上海にいたそうです。
戦局が行き詰まってくると少年だった彼も徴用されたとのこと。
その徴用先が江南造船所。

この江南造船所は当時は日本軍に接収されていたそうですが
そもそもここは清朝末期洋務運動時に李鴻章が建てた中国最大の造船所です。
江南機器製造總局是清朝自強運動中成立的軍事生產機構,為晚清中國最重要的軍工廠,也是近代最早的新式工廠之一。為後來江南造船廠的前身。

江南機器製造総局は清朝の自強運動中に成立した軍事生産機構で
清朝末期の最重要軍事工場であり、かつ最初の近代新式工場の一つである。
後の江南造船所の前身である。


先日西太后の記事でもご紹介したように洋務運動中の中国の近代工業の発達は
明治維新をしのぐほどで技術力もかなりの高水準だったとのこと。
じゃあ何で甲午戦争に負けたのか?
技術はあってもの封建制度が変わらなかったというのが現代の解説。
その実、先端技術を駆使した弾薬には火薬が入っていなかったとのこと。
業者が横流しして詰められたのは砂でした。

それはともかく洋務運動の柱であり目玉であるのががこの江南製造局なんです。

そこで働いていたんですからびっくりです。
で、何をして働いていたのか?

「ベニヤ板で船を作って、接収してきた自動車のエンジン積んで
弾薬積んで特攻船を作ってたんだ!!」

「ええ~! でもよかったですね乗る人じゃなくって」

その後戦争が終わり1946年に日本に無事帰ってきたそうです。
いわく戦後も上海はそんなに治安が悪くなかったそうです。

そして今でも中国をを勉強されているのです。
向学心には恐れ入ります。

また奇遇なことに私の大学の先輩であることがわかりました。
でも入学が1947年の大先輩ですが。

「おお後輩か?商法の〇〇先生は知ってるかい?学長は誰だい?」

「私、あまり真面目に行っていなかったので覚えてません。
でもすくなくとも先輩より年下でしたのでご存知ないと思いますよ。」

ちなみにその飲み会参加者のだれも彼が大学入学したときに
この世に生を受けておりません。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-03 21:30 | 生活 | Comments(1)