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中華 状元への道

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2005年 06月 04日

満州

今日は娘(5歳)と息子(1歳)を連れて祖母のうちに行きました。子供たちにとっては曾祖母。
祖母は一人で住んでいますが箪笥の上に戦争で亡くなった祖父の軍服姿の写真が飾ってまります。

祖父母は満州にいました。ロシアの国境近くだったそうです。

冬はマイナス30度。町には薬屋以外に店はなく、近くで兵隊がイノシシに食われたり、狼の遠吠えが聞こえる辺境の地。近くには満人、鮮人の部落があり、日本人は兵舎にいた5,6人。
満人の方には餃子をご馳走になるなど大変やさしくしてもらったと語っていました。

祖父24歳、祖母23歳。
祖父は軍人で常に馬に乗っていたが軍のことは一切語らず、何をしているか何もわからなかったらしい。

一年経ったころ祖父は先に日本へ帰国し、祖母は一ヶ月後一人で帰国した。
帰国と簡単に言っても当時のこと一ヶ月かかって新潟に辿りついたとのこと。
その上、当時祖母は妊娠10ヶ月。(私の母が腹に)

祖父母が帰り着いた先、というか軍人として赴任したのは広島。
祖父は2週間後の原爆でなくなりました。

祖母も被爆しましたが現在84歳。最近卓球はじめました。

何か一つ運命の歯車が変われば母は残留孤児で私も中国人だったかも。

以上






建国の背景

20世紀初頭の日本では、満州を影響下に置くことを企図する帝政ロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。このため、日本は対抗して日清戦争・日露戦争を通じて、満州の南の朝鮮半島・遼東半島に進出、満州にも影響力を伸ばしつつあった。第一次世界大戦中にロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。共産主義の拡大に対する防衛基地として満州の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになった。

一方、満州は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していたため、1912年の清朝崩壊後は権力の空白地帯となっており、軍閥の張作霖が支配を確立しつつあった。満州を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満州における日本の権益を確保しようとしたが、中国革命の進展によって国民党の勢力が満州に及ぶことを恐れた。また1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、長城以東の全満州を国民党の支配する中華民国から自立させ、日本の影響下に置くことを企図するようになっていた。

また、日本国内の問題として、昭和恐慌からの不景気から抜け出せずにいた。特に1924年、アメリカで排日移民法が成立すると、貧困農民層の受け入れ先が無くなり、貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満州事変が発生すると、若槻礼次郎内閣の不拡大方針を他所に、新聞をはじめとした国民世論は支持をした。

建国
満州国建国宣言文
拡大
満州国建国宣言文

1931年9月、満州事変を起こして全満州を日本の関東軍が占領すると、翌年1932年2月に、遼寧・吉林・黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満州新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。元首として清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を担いで満州国執政とし、1932年3月1日、満州国の建国が宣言された(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、国名は満州帝国(満洲帝国)に改められた(元号は康徳に改元〈当初は啓運を予定していたが、関東軍の干渉によって変更〉)。国務総理には張景恵が就任した。

満州国をめぐる国際関係

一方、満州事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月にリットン調査団を派遣することを決議した。1932年3月から6月まで中国と満州を調査したリットン調査団は、10月2日に至って満州事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満州に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満州における特殊権益を認め、満州に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告をする報告書を提出した。9月15日に斎藤実内閣のもとで政府としても満州国の独立を承認、日満議定書を締結して満州国の独立を既成事実化していた日本は、リットン報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーブで開かれた国際連盟に送り満州国建国の正当性を訴えたが、総会において賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)により報告書が採択されると、日本は1933年3月国際連盟を脱退する。

1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、第二次世界大戦の終結以前に満州国は日本の同盟国など、以下の23ヶ国の承認を受けていた。当時の独立国あるいは政府は現在に比較して少なく、およそ80ヶ国である。

日本・中華民国南京国民政府・ドイツ・イタリア・スペイン・ヴァチカン・ポーランド・クロアチア・ハンガリー・スロバキア・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・デンマーク・エルサルバドル・タイ・ビルマ・フィリピン・蒙古自治邦(内モンゴル)・自由インド仮政府

崩壊

1945年に入ると、5月にはドイツが降伏。第二次世界大戦もいよいよ大詰めとなり、太平洋戦線では前年のフィリピンに続き3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題であった。そんな中、広島への原子爆弾投下直後の8月9日、ソビエト連邦はヤルタ会談において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告した。まもなくソ連軍は北西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて満州に侵攻するとともに、北緯50度線を突破し南樺太へも侵攻した。ソ連がこの時期になって参戦したのは、日本にまともな反撃をする体力がなくなった頃を見計らい、その降伏の寸前に少ない犠牲で出来るだけ多くの支配地と産業設備を強奪するのが目的であった、と見るのが多数説である。

ソ連軍侵攻に対すべき関東軍は、大戦中期以降再三にわたり南方戦線に兵員・装備を引き抜かれた結果、往年の兵力は見る影もなくなっていた。この状態では満州領土外縁の広範囲において防衛戦闘を行うことは人員上・補給上ともに不可能であり、敵に一旦国境線の踏破を許し、懐へ引き込んで要所で迎え撃つというような作戦をとらざるを得なくなった。この犠牲となったのが、戦前・戦中に日本から入植して満州北部の地域を開拓していた居留民たちである。彼らは、関東軍に守られることなく放置同然となってソ連軍の正面にさらせれ、また満州国軍の一部反乱部隊にも襲い掛かられた。多くの者が着の身着のまま避難する途上で力尽きたり、ソ連軍や反乱軍、そして反日派の満州人・中国人によって虐殺されたり、前途を悲観して集団自決したり、生き残ってもシベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留されたりと悲惨な運命をたどった。この混乱の中、現地の満州人・中国人に預けられたり保護されたりして肉親と離れ離れになった日本人の幼い子女が、いわゆる中国残留日本人孤児である。

一方、南部居留の日本人は、関東軍が局地戦闘でソ連軍を食い止めて時間を稼いだため、大連港等から脱出できる者が北部に比べれば多かったが、逃げ遅れて北部居留民と同じような目に逢う者も決して少なくはなかった。関東軍の多くは抵抗を続けたものの、強力な火力と大量の兵員で攻め込んでくるソ連軍に対する戦力の差は比べるまでもなく、ついに8月15日の玉音放送を迎えた。

皇帝溥儀たちは、ソ連の進撃が進むと新京を放棄して朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、この放送で大戦と自らの帝国の終わりを悟ることとなる。2日後の8月17日、国務院は満州帝国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満州帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。

なお溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に逃亡する直前に、ソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕された。

by zhuangyuan | 2005-06-04 20:29 | 文化、歴史


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