中華 状元への道

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2005年 05月 25日

李白 出生の秘密

李白,他身上就有突厥人的血液,这从他两个子女的名字就可以得到证实。

(李白、彼には突厥人の血が流れている、彼の子女の名前から推測できる)


おなじみ狼图腾を読んでいましたら上記の文が目に飛び込んできました。
彼の息子の名前は颇黎(poli)というらしいのですが中国語では理解不能だとのこと。ただこの発音は突厥語の狼という意味だという。

あの詩仙李白がモンゴル草原を駆ける突厥だったとは。中国の包容力はすごい。

以上



突厥(とっけつ、とっくつ)は6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。アルタイ山脈の麓に住んでいた。

突厥はテュルク系と見られ、その可汗は阿史那氏と呼ばれる。当初は柔然に従属してアルタイ山脈の西南で鉄の鋳造や金の採取を生業としていた。6世紀中頃に強勢となり、同じテュルク系の鉄勒を服属させ、その力で柔然の支配を打ち破り独立した。

その後はモンゴル高原に領土を広げ、サーサーン朝と結んでエフタルを滅ぼした。

東は中国の北方まで西はカスピ海にまで伸びる大勢力となった突厥だが国内では小可汗が乱立しており、隋の離間策により内部での対立が激しくなって東西に分裂した。

その後、東突厥の啓民可汗(突利可汗)は隋より安義公主を降嫁され、隋の後ろ盾で突厥の大可汗となったがこの時期に鉄勒の独立運動が激しくなり、突厥全土には影響力は及ばなかった。

隋の支配が乱れると啓民可汗の息子始畢可汗は勇躍し、隋に侵入して朝貢を停止した。また鉄勒を再び強い支配下に収め、隋を滅ぼした唐を圧迫した。627年に唐に侵攻し、唐は玄武門の変の直後で国境警備の兵は殺された李建成の指揮下にあったため動揺しており、突厥は簡単に長安のすぐ近く渭水まで迫った。この時、旧唐書によれば当時の唐皇帝の太宗に協約違反を責められてすぐに帰ったと書かれているが、これは非常に疑わしい。実際は突厥に有利な和約を結んで帰ったという所だろう。

しかしその二年後には唐軍と独立した鉄勒との挟撃を受けて始畢可汗の弟頡利可汗、始畢可汗の息子突利可汗は唐に降伏し東突厥は滅び、唐の羈縻支配に置かれる事になる。その後も何度か唐に対して背き、682年には独立を果たして第二突厥帝国と呼ばれる国を建てる。しかし内紛が激しくなり、745年にウイグルを中心とした連合軍に攻められて完全に滅びた。

西突厥はその後も内部紛争を繰り返し、唐の討伐を受けて衰退していった。

文化面で言えば、突厥は、東アジアにおいて、漢民族以外で、日本のかな文字と同様に、比較的早くに独自の文字を持った民族として知られる。そのことは、1889年以後に、モンゴル高原で発見された突厥碑文によって世に知られることとなった。中でも有名なのは、第二突厥帝国期の闕特勤碑文(オルホン碑文)である。wikipediaより
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by zhuangyuan | 2005-05-25 23:05 | 中国関連DVD、本 | Comments(0)


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