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中華 状元への道

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2007年 08月 12日

長い一日

本日は家族が妻の実家に帰っており久しぶりに一人の自由時間。

めったに行かないゴルフの打ちっぱなしに行き、改めてセンスのなさを感じ、
その後はスポーツ用品店で競泳用水着を購入し区民プールで汗を流し、
昼飯は行きつけの台湾人が経営するアジア料理店で三種類の肉がのったスペシャル丼を食べました。うまかった。

そして一日は長いので
古本屋で二冊購入。
伴野朗「毛沢東暗殺」
檜山良昭「スターリン暗殺」

で夜は中国語翻訳をしてみました。
ご指導願います。
原文はこちら。
中国“商人”来啦!

中国“商人”が来たぞ!
二月河

もし道行く人に「中国で最初の商売人とは誰でしょう?」と尋ねれば、ほとんどの人が“范蠡”と答えるでしょう。范蠡は呉越春秋時代のもっとも有名な政治家であり経済学者です。彼は楚国から転じて越国の大夫となり、文種とともに勾践を補佐し、敗北の危機から繁栄に向かわせ諸侯の覇者呉王不差を打ち破りました。功をなした後、身を退き、西施を船に乗せて五湖に浮かびつつ、商売を始め、財を成し“陶朱公”となりました。「臥薪嘗胆」「 十年力を蓄え、十年で報復する」 「君子復讐するに十年遅からず」と聞けば電光石火のごとく彼の名前を思い出すでしょう。

范蠡の親友は文種といい、彼ら二人はともに南陽を出て呉越で激動の政治の大波をくぐってきたのです。
もし文種にかわって范蠡に「商祖とは誰ぞや?」と問えば、「王亥である」と答えるでしょう。王亥とはどこの人でしょうと再び問えば、躊躇なくこう答えます。「商丘の人です。」そこは商国といい、そこに住む人は商人、よってそこは商と呼ばれ、王亥は商祖なのです…。こんな歴史の沿革は誰もが知っているわけではないでしょう。

いったい商国が先なのか、「商い」が先なのか?こんな話は少し哲学がかっていて、鶏が先か卵が先かということに答えるようで、禅問答になってしまいます。

人類のすべての種族は神話の中から始まります。商人の始祖は玄鳥です。いわゆる「玄鳥生鳥」の故事は四千年前の春の日に生まれるのです。皇帝喾の妃、简狄が河で沐浴をしつつ燕の卵を食べたがゆえに懐妊し、契を生みます。王亥は契の子孫です。詩経のなかの「商颂・玄鳥」 にこの家族の起源が語られています。もし興味があり現代の商丘に分け入り、最も栄え、最も生き生きとしたところに行ってみると、二つの巨大な彫像が目に入ります。一つは「商」の字をかたどった鼎です。もうひとつは玄鳥の卵から火焔があがり、上には地球抱き、さらにその上には、飛翔する燕を馬が踏み、空に昇るような勇姿を見せており、すべてが紅蓮の炎に舞い上がっているようです。商丘は元来豪快な土地柄で、このようなシンボルを造り上げ、見るものを真に興奮させます。

商人の行商は王亥に始まったわけではありませんが、王亥は商丘の地を爆発的に発展させました。当時、中原の商品交易は馬に頼り車を引いていました。しかし馬というものは中原ではうまく飼育できませんので、主に西域からつれて来ていました。馬が少ないと商売交易は出来ないのです。王亥のもっとも大きな貢献は牛を飼いならして車を引かせたことです。牛の鼻を通し牛を指揮しました。速度は馬ほどではありませんが力や忍耐力は馬よりもすこしよいくらいです。彼は運搬の問題をクリアし、商品の運輸能力を革命的に高めました。これが王亥をして商祖たらしめている主な理由でしょう。例えば、肩に荷を担いで村を回っていたのが、突然大きな車で街から街へ地方から地方へと荷物を引いていったとしたら、効率の変化は言うまでもありません。このように諸侯の国々の間、部落から部落へと大規模な商業活動が広く発展していったのです。王亥が牛車隊で荷物をひいて列国を周遊すると人々は遠くからその壮観な隊伍を見て、続々と門をとびだしてきて、喜んで呼びかけます。「商人が来たぞ!商人が来たぞ!」
これはどんな効果があるでしょうか?こうした交流は原始封建的生活の中での文化交流といえるでしょう。売買両者はただ単に金銭や物品の交易にとどまらず、このような形で情報を伝えたり、商国の先進的な生産方法を伝え広めたりしました。また他国の生産方法もこうしてすばやく商国に流入し、各国の友好関係を促進させ、各国の経済発展を加速させ、さらには民衆の生活水準を改善させ、各国人民の知恵を労働の結晶を伝播させることができました。

牛というものはそもそも飼いならすのが難しい動物でしたが、現在牛が従順なのは、王亥が四千年かけて飼いならした結果なのです。しかしながら、もし牧童のように牛の背にのって笛を吹きたいなら、よほどよく訓練しないといけません。牛の鼻を引かずして牛を動かすのは、どのみち無理な話です。王亥の牛を馴らしたという功績はたいしたものなのです。安陽の殷の廃墟から出土した甲骨文字にもこのことが記載されています。《竹书记年》、《山海经》、《史记》、《楚辞》、《吕氏春秋》、《管子》といった輝かしい歴史書にも絶えることなく記されているのです。

しかしながら王亥の知名度は范蠡にはるかに劣ります。范蠡は聖であり、王亥は神祖といいますが一般人には知られていません。それは私たちが長く「農を重んじ、商を軽んず」 という治国理念を持ってきたからです。「士農工商」でも商人は四民のもっとも末席に位置しているのです。渔、樵、耕、読は雅やかであり、琴、棋、書、画もしかりである。雅やかなことに「商い」は入らないのです。范蠡が有名なのは彼がお金儲けをしたからでなく、呉越春秋の時代に輝かしい政治履歴を残したからなのです。資料の中でこういっています。旧時代は商号で年を越すときは門前にこう掲げたと、「商売を賤しむことなかれ、范蠡は嘗て越の大夫なり」これを読むたびにいるも笑ってしまいます。私はこう思うのです。商人はカウンターの上で銭を数えます。風流な人は蒲団を被って銭を数えます。どちらも違いはないではありませんか。

今年六月、本当に暑い日が続きましたが、現在商人の書記をしている友人の劉満倉は私をさそって彼らの華商文化広場を見に行きました。ここには、5,6階のビルの高さの王亥の銅像が広場の中心にそびえたっています。また数万の異なる書体で記された「商」の字のブロックが広場を埋め尽くし、真ん中に道が通っています。それは歴代王朝で使われた貨幣で出来ています。広場に入ると6メートルの高さの魏国安陽銅で鋳込んだ大きな布幣が二枚見られます。「商い」と「銭」が広場の雰囲気を満たしています。2006年国際商文化節はここで開催され、数千人の国内外の商人がオークションを開きました。王亥が竹筒を抱き、ゆっくりと一歩一歩進み、足を止め、彼が創造した無限の輝きを見つめています。

「銭」は決して銅臭さを意味するのではありません。本質的な意味からいうと、「泉」を表すのです。つまり万物精霊を潤す源であり、生命の張力の流れであり、文明開化の触媒の役目を果たしているのです。
以上


by zhuangyuan | 2007-08-12 22:41 | 学習


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