中華 状元への道

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2006年 06月 11日

宦官英雄 鄭和

宦官ブログとしての第一歩は
偉大なる英雄、鄭和からはじめましょう。
明の時代に大旅団を率いて7回も大航海を決行した英雄です。
*宦官を知らないかたは宦官物語参照してください。

鄭和はまたの名を三保太監といいます。この太監というのは宦官の通称です。
ただ自ら進んでなったわけではありません。
明の全国統一の過程に当時雲南にいた12歳の色目人鄭和は美少年だったため
戦利品としてとられ去勢され朝廷に送られます。

そこで仕えたのが後の永楽帝、燕王朱棣。
これがラッキーでした永楽帝は洪武帝が宦官の登用を禁じたのに反して
どんどん優秀な宦官を登用したそうです。
そこで鄭和は宦官トップにのぼりつめたんです。

そこで永楽帝は大船団を率いて大航海をすることを計画します。
なんのために?
諸説ありますが有力なのは
《明史·郑和传》中记曰:“成祖疑惠帝亡海外,欲觅踪迹,且欲耀兵异域,示中国富强。”

「明史、鄭和伝」の中に記されているのは「成祖(永楽帝)は恵帝(建文帝)が海外逃亡したことを
疑い、捜索したいと考え、且つ軍隊の威勢を異国に示し、中国の力を誇示しようとした。


永楽帝は3代目皇帝ですが
甥である2代目皇帝建文帝を倒して政権をとります。
でも彼がいなくなっちゃった。彼を探し出すために大船団を派遣した。

その船団の団長に抜擢されたのが鄭和。
なぜか?
国際性を持ち合わせた大人物だったから。

陳舜臣の中国の歴史(平凡社 全15巻)の第11巻によると
鄭和は色目人。西域に住む人たちのことでイランかトルコ人のような感じでしょう。
しかも父親はイスラム教徒でメッカ巡礼も経験しており、
子供のときからこの冒険譚を聞かされて育ったんですって。
またペルシャ語も話せたし、コーラン読むからアラビア語も出来る。
中国にいますから四書五経も読みこなしたと言いますからすごいです。

しかも美男子で体もデカイ。でもチ〇ポはない。
こんな国際感覚豊かな知識人は見つけようとしたってなかなかいないでしょう。
なるべくしてなったって感じでしょう。

そこで7回の大航海に出かけるのですが
彼の人柄のおかげで大きな戦争もなく、友好的な交流ができたということです。

でも実際は他国にしてみれば戦いたくてもとても戦える相手ではない。
馬鹿でかい船と大多数の船団と兵士を率いていったんです。

本によっていろんな数が載ってますが
208隻の船と乗組員37800人。(62隻,27800人との説もあり)
いずれにせよすごい数字。

船のデカさ度肝を抜きます。
最大的长44丈4尺,宽18丈,是當時世界上最大的海船,折合現今長度為151.18米,寬61.6米。船有四层,船上9桅可掛12張帆,錨重有幾千斤,要動用二百人才能啟航,一艘船可容納有千人。

最大長さ44.4丈、幅18丈、で投じの世界最大で今の長さに換算すると
151.18m、幅61.6m。船は4層にわかれ9つのマストに12の帆がかかり、
錨は数千斤で、200人かけてやっと出航でき、一艘あたり千人収容できる。


重さは8000トン級だったそうです。その93年後のバスコダガマの航海時の舟は120トン
だったそうですからいかに巨大かわかります。

こんな船団が突然やってきたら
「ごめんなさい。何でも出しますから許してください。」ってなっちゃいますよね。

日本なんかは幕末に黒船4隻で震え上がってしまうんですから。
ちなみに黒船の最大長さは78mです。ちっちゃいちっちゃい。
全部に合計1000人くらいのってたらしい。幕末の黒船

これが来ただけで
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
となっちゃうわけですから。

で鄭和は今の国名でいうと
ベトナム、タイ、インドネシア、スリランカ、インド、イエメン、サウジアラビア
ソマリア、ケニアなどに足跡を残すのです。なんか興奮してきますね。このスケール。航海図

でも鄭和も友好的な態度をとおしたらしく
スリランカで発見された石碑には三ヶ国語でこんなことがかかれていたそうです。
これも陳舜臣さんの本に載ってました。
私は中国語のサイトから引用しましょう。

这块石碑引人瞩目之处,在于碑文分别用中文、泰米尔文、波斯文三种文字写成。中文的碑文说的是,郑和等受明代皇帝派遣,下西洋时来到斯里兰卡巡礼圣迹,布施香礼,以竖碑记之的情况,
(中略)
泰米尔文的碑文表示的是对南印度泰米尔人信奉的婆罗门教保护神毗瑟奴的敬献;波斯文的碑文则表示对伊斯兰教信奉的真主给予敬仰之情

この石碑が注目されるのは漢語とタミル語、ペルシャ語の三種の文字で碑文が書かれていることです。
漢語で書かれているのは、鄭和が明の皇帝により派遣され、西洋に出てスリランカに着き
聖跡を巡礼し、お布施して碑を建立した様子が書かれている。
タミル語の部分は南インドのタミル人が信奉するポロメンの守護神ピサヌへの献身を記し、
ペルシャ語はイスラム教のアラーへの敬愛の念を記してある。


この宗教への寛容さに鄭和の懐の深さを感じます。
異民族が来て石碑建てて示威的態度に出ると思いきや地元の神に祈る碑をたてる。
粋な人です。

このサイトでは次のように続いていきます。

这块石碑是郑和以及当时明朝皇帝平等宽容精神的体现和象征,同时也表明中国当时具有极为宽广的胸怀和世界性的眼光。 

この石碑は鄭和と当時の明朝皇帝の平等寛容精神の体現と象徴であり
同時に中国の当時の広い気持ちと世界性を持った見識を表しています。


なんだか政治臭くなってきました。

郑和之后不久,葡萄牙人、荷兰人、英国人相继来到了斯里兰卡,与郑和的平等互利、礼尚往来完全不同的是,这些殖民者不仅对斯里兰卡丰富的物产进行血腥掠夺,而且,逼迫斯里兰卡人民改信天主教、基督教,激起了斯里兰卡人民的仇恨与反抗。 

鄭和のあとまもなく、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が相次いでスリランカに来ますが鄭和の平等と相互利益の精神と礼儀とは完全に異なるのは,これら植民地主義者はスリランカの
豊富な物産に対して血眼になって略奪するだけでなく、
スリランカの人民にカトリックやプロテスタントに改信をせまり、人民の恨みと反抗を買った。
原文はこちら

もういいよ。わかったわかったって感じです。

そして裏読みすると
現在の中国の海外進出は純粋に友好と相互利益を求めたもので
覇権主義では絶対ないですよ。皆さんご心配なく。とこういいたいのでしょう。

政治臭いのは嫌いですからやめましょう。

ともかく
この鄭和さんの雄大な構想、偉大な業績と大きな心は尊敬に値します。
男の中の男ですね。

あ!男じゃなかった。宦官ですから。

でも男以上に男っぽい。憧れます。

以上
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by zhuangyuan | 2006-06-11 14:30 | 文化、歴史 | Comments(7)
Commented by xia at 2006-06-13 03:15 x
この鄭和さんの雄大な構想、偉大な業績と大きな心・・・・・・に共鳴する人々が居ないなら、男以上男っぽい彼一人でもオッケ!?? 頭が汚染されたのは壮元様の‘単細胞’の先生のだけではなさそう!!(您经常对我说的一句话就是"你尽管说吧・・・・・・”那我就一家之言随便说说.ホホホ~~)
Commented by zhuangyuan at 2006-06-13 07:10
xia老師
私、先生に対して’単細胞’なんて言いましたっけ?
你的头脑被什么污染?我不太明白你说的意思。
Commented by xia at 2006-06-13 14:26 x
やっはりface to face のコミュニケーションも大事ですよね!上手く意思表明できませんでした、すみません!
’単細胞’なんて冗談の時の話でした、気にしないでください!頭は汚染されたのは国の教育から、私はここで話したいのは:どんな偉大の人でも、多かれ少なかれ彼らの行動や思想やその歴史時期の社会風潮、人々の考えを反映する事はできます。たまに政治臭くないものもあるかもしれません。
残念ながら、日本では、中国という国に対する正面的且つ明るい評価はなかなか少ないような気がします。
Commented by かめ at 2006-06-13 16:28 x
鄭和のお話しは大変興味を持ってます。 が、今の政治に利用されるのを残念に思うのでしょ。 会話かみ合ってます? ワタクシメは鄭和が海外で残した足跡に注目しています。 確かにお互いを敬う態度で接した様子がうかがえます。 xiaさんもなにが「一家之言」だか知らないけど、「正面的且つ明るく」行きましょうか。 お互いに。 

Commented by zhuangyuan at 2006-06-13 23:17
xiaさま、かめ様
今の政府が鄭和の偉業を利用するのは自由だと思うのですが、鄭和の時代の世界に冠たる帝国の寛大な王道外交と、自らは覇権主義ではないといいながらもその実、失地回復が目的の拡大志向を持つ現中国外交、この両者は似ているようでいて、相手の受け取り方は全然違うと思います。現中国も真に鄭和のような王道を歩んで欲しいものです。
Commented by 東夷 at 2014-05-27 00:54 x
この馬鹿な記事のおかげで、鄭和が実際はイスラム教徒に成り済ましたマニ教徒=ピューリタンであり、その主な目的は韓半島の文化財を持ち出すことと東アジアの情勢をヨーロッパのイギリスに居着いた本家に報告することで、その目的を悟られない為にイスラム教徒に成り済ましていたことが分かった。
鄭和が東アジアの偵察、ドレイクは新大陸の偵察、アフリカ大陸を回っていた奴もいたな。あとはベーリング海峡を渡ってみれば世界が球体であることは理解できる。つまり中世には、ピューリタンどもには世界のおおよその形が分かっていたわけだ。

んで韓半島の蓋をこじ開けることができたわけだから、つまりこの時期には、支那→韓半島→日本列島という侵略プランが出来上がっていたことになる。秀吉の遠征は明を牛耳っていたマニ教徒を討つことが目的だろう。何しろ織田信長がピューリタン=マニ教徒だったから、その性質は良く分かってるからな。
んで都合が悪いから、創作物を介して信長あげ、秀吉さげを繰り返しているわけだ。
Commented by zhuangyuan at 2014-05-30 23:26
東夷さま コメントありがとうございます。本能寺をやっつけたのはイエズス会なんて話もありましたね。


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