中華 状元への道

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2005年 11月 05日

開拓

私は1歳から7歳まで牧場で育ちました。
父が酪農の技術者をしていた関係です。
とても辺鄙なところで家にテレビも電話もありませんでした。
半径一キロ以内に私の兄弟のほかは子供が女の子ひとりしかいませんでした。
一日バスは3本きました。休日は2本です。
父は毎日5時に起きて牛の世話をしていたそうです。

そんな父が先日一冊の小冊子をくれました。
父の仕事上の恩師から頂いたらしいのですが
その恩師が戦前の満州での開拓時代を語ったものです。
私が中国語を勉強していると話したら頂いたそうです。

当時ある日本企業が中国で相当儲けており
日中戦争がおこるとそれがパーになるということで
日中戦争を避けるため資本と技術を投入し
中国各地に理想農場をつくるというプロジェクトがあった。
水田作って農協をつくる、小学校を建てる、青年学校を建てる、病院を建てる。
という理想の水田地帯です。

そこでの開拓の様子が語られています。
冬になるとひどいものでした。極端な家では、オンドルに枯草をちょろちょろ燃やして、水を飲んでじっと冬越しするんですよ。うそのような話でしょう。仕事がないのです。そうすると親類などが来て、あいつ食い物ないらしいと、ちょこちょこくれるのを食って冬越しするのです。

そこで農場では運河沿いの葦を刈って燃料や建築材料として冬を越させ
また予算を追加し高粱を買ってきて炊き出しをしてあげたそうです。

日本軍、国民党軍、共産軍三つ巴の中国で
平和をめざし理想に向かって走る男達がいたのです。

余談ですが
今日私はゴルフに行きました。
一緒に回った71歳の大先輩のお祖父さんはこれまた満州で活躍されてたとのこと。

その方は田舎から一旗上げようと満州に飛びワイン作りで一山当てたそうです。
ブドウは山からただで持ってきて仕入れはただだったそうです。
後は技術者をフランスに勉強に行かせて発酵の技術を習得したとのこと。
お客さんは陸軍だったそうです。

でも戦争が終わって全てを失ったとのこと。
ただ日本に帰国の後は今度はお茶屋で成功したらしい。ほんとたくましい。

人生もいろいろ、満州もいろいろ。

以上
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by zhuangyuan | 2005-11-05 21:04 | 文化、歴史 | Comments(6)
Commented by 玉井一匡 at 2005-11-06 13:28 x
トラックバックしてくださり、ありがとうございます。ぼくもトラックバックさせていただきました。
これからでかけるところなので、じっくりとはコメントが書けませんが、僕自身はいまから中国語を勉強できる余裕はなさそうですが、このblogを通じて、中国語と中国の日常を感じることができそうです。靖国参拝を続ける首相と、それを支持するヒトが半分もいるという腹立たしさをやわらげるためにも。
Commented by zhuangyuan at 2005-11-06 20:52
満州走馬燈を私も是非読んで見たいなと思いTBさせていただきました。今後ともよろしくお願いします。
Commented by kits at 2005-11-07 15:49 x
TBありがとうございました。その恩師の方は満州のどのあたりにお住まいだったのでしょう?
私も祖父の知人の話の中で、満州の暮らしは厳しかったけどささやかなご馳走を振舞いあったり同郷の人間を訪ねていったりと人間味あふれる話にほっと心が温かくなりました。
Commented by zhuangyuan at 2005-11-07 20:52
その方は満州国吉林省にいらしたそうです。ちなみに私の祖父母も終戦直前に満州におりまして、こちらは満州国東満総省でした。
Commented by kits at 2005-11-08 18:51 x
返信ありがとうございます。吉林省ならウチの祖父(間東省)の隣なので近いですね。
そうですか、おじい様おばあ様も満州にいらしたのですか。東満総省は東安省のことですよね。随分ロシアよりのところですね。ご苦労されたのでしょうね・・・。
Commented by zhuangyuan at 2005-11-08 20:45
kits様
祖母に聞くところによると現地での生活は平穏だったようですが引き揚げの時は妊婦でありながら一人で帰ったらしく相当大変だったようです。


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