中華 状元への道

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2005年 07月 31日

古書の街

やっと東京に帰ってきました。
大阪で買ったもの。古本二冊。

阪急梅田の地下に古書の街なるものを発見しぶらぶらしながら買いました。

一つは「禅 鈴木大拙」。
「日本の弓道」で影響を受けちょっとかじってみようかと。

もう一つは「支那語雑誌 帝国書院」。
昭和18-19年発行の雑誌9冊分ですが当時中国に進出していた日本が生活する上で
支那語習得が必要になり発行されたらしい。

かなり幅広い地域で発行されていたようで読者からのお便りコーナーでは
日本だけでなく、満州、中国、台湾などの読者もたくさん登場しています。
なかには鮮満国境警備隊〇〇さんなんてのも見えます。

昭和18年3月号にはすごい写真が載ってました。
d0018375_21173047.jpg



松井石根大将と汪精衛(汪兆銘)国民政府主席(親日政府)です。
いまでは日中両国でタブーの二人のツーショットです。
(残念ながら写真のみでこれに関する話題は掲載されていませんでした。)
こんなのはありました。
「国民政府対英米宣戦布告 全文」(もちろん中国語)

こういう写真が一般の語学雑誌に掲載されるんですから当時の庶民にとって
中国通松井大将と親日汪兆銘は泥沼日中戦争の希望の星だったんでしょう。

ゆっくり読んでまた内容を報告します。

余談ですが松井大将は昭和23年12月23日没とありました。
極東軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となりました。
つまり当時の皇太子(今の天皇)の誕生日に死刑執行されたのです。
ちなみに東京裁判の起訴は4月29日(昭和天皇の誕生日)に行われたそうです。
アメリカっていやらしいことしますね。

以上






松井石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、大日本帝国陸軍軍人。父親は旧尾張藩藩士、松井武國。

孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また蒋介石とも親好があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。

軍紀に厳しいことで知られ、昭和3年(1928年)に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した。

昭和15年(1940年)2月、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立した。

日中戦争前には予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰し、上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の中華民国の首都南京を攻撃・占領した。そのとき南京大虐殺が発生した。事件の報を聞いたとき、彼は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた。」と嘆いたという。しかし、松井はその時点で指揮下の部隊に対する統制力を失っており、軍紀を回復することが出来なかった。松井は中支那方面軍司令官を解任され、本国へ呼び戻された。

戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を努めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。翌昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。後年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された
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by zhuangyuan | 2005-07-31 21:31 | 文化、歴史 | Comments(0)


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